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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 1st day 5

目が覚めると、白い天井が見えた。 喉奥が張り付く感覚。喉がすごく渇いている。そして、自分が泣いていることに気づく。 また沙生の夢を見ていた。 涙を拭いながらベッドから身体を起こすと、ソファに腰掛けているユウが見えた。 「ユウ……」 声に出して名を呼べば、眠りに落ちる直前の記憶が鮮やかに蘇ってくる。思わず目を伏せて、自分の身体に感覚を研ぎ澄ました。 あのおぞましい薬の効き目は、もう切れているようだった。そこでようやく気づく。自分が服を着ていることに。 ユウが立ち上がって、こちらに歩み寄ってくる。 「身体は大丈夫か」 僕は頷いて、そのまま俯く。怖かった。 怖い。──何が? ユウが怖いんじゃない。ユウに憎まれているかもしれないことが、怖いんだ。 現実に引き戻された途端、この世界からいなくなりたい願望が急激にせり上がってくる。 「……死にたい」 そう呟くと、ユウは立ったまま僕の顎を掴んで持ち上げた。 「死にたいよ、ユウ」 鳶色の瞳を真っ直ぐに見ながら切実な願いを言葉にする。また、重い帳のような絶望が降りてくる。 「サキのいないこの世界に、僕の居場所はないから」 僕の言葉に、ユウは屈み込んで目線を合わせた。 「お前が死ぬのは勝手だ。でも、もう少しここにいろ」 「……どうして」 「アスカ。俺の言うことを聞けるな」 ──サキの生命を奪った、罰だ。 有無を言わさない口調が、そう聞こえた。僕は視線を逸らして口を開く。 「少しの間なら」 ユウが顎を掴んでいた手の力を緩めて、そのまま僕の頬に触れた。なぜかはわからないけど、その顔は少し安堵しているように見えた。 「何か食べるか」 いらないと首を振ると、ユウは部屋を出て行ってしまう。 暖かみのある灯りに包まれた寝室に、僕は一人取り残される。カーテンの隙間からわずかに射し込んでいた光はもう見えなくなっていて、陽が暮れているのだとわかった。 どれぐらい眠っていたのだろう。思っていたより長い時間かもしれない。 そして僕はまた思い出す。理性をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられながら淫らな痴態を曝したあの行為を。 僕はユウと最後までしたのだろうか。 恐らくはしていない。意識を失って、きっとそのままだ。なんとなくそんな気がしていた。 ユウの考えていることがわからなかった。これから僕をどうする気なのだろう。 扉が開いて、ユウが戻ってきた。その手に持つのは、白い陶器とペットボトルが乗せられた銀色のトレイだ。こんな時なのに、トレイの持ち方がすごくきれいだと思った。 「ユウ、仕事は?」 ユウが経営しているバー『PLASTIC HEAVEN』は、夕方には開店しているはずだ。 「少し休むと言ってる。優秀な店員がいるから、問題ない」 そう言いながら、トレイをサイドボードに置く。器の中に入っているのは、お粥のようだった。そこに添えられているのは、英字のラベルが貼られたミネラルウォーターだ。 また中に薬が入っているのかもしれない。そんな疑念を抱きながら、ユウの顔をそっと見上げた。 「封は開けてない」 僕の心は見透かされていた。喉の渇きに負けて、ペットボトルに手を伸ばす。蓋を捻るとカチリと小さな音がした。未開封に違いない。 液体を喉に流し込めば、冷たい水分が身体にゆっくりと染み込んでいく感覚がした。 ユウはお粥の入った器とスプーンを取って、僕に差し出す。 「少しでいいから口に入れろ。お前はもう何日もろくに食べてないはずだ」 そのとおりだった。けれど食欲はなくて、とても食べる気にはならない。器の中では、お米の一粒一粒が花のように開いて、白くつやつやと光っていた。 僕が眠っている間に、作ってくれたのだろうか。 躊躇っていると、ユウがスプーンでお粥を掬って自らの口に入れた。咀嚼せずにそのままごくりと飲み下す。 「何も入ってない。約束する」 そう言いながら、もう一度掬って今度は僕の口元に持ってくる。根負けして口を開けると、カチリと歯に金属があたって、温かいものが流れ込んできた。 口の中に仄かな甘味がゆっくりと広がる。不意に泣きたくなった。生きる資格なんてないのに、身体は糧を欲している。それがひどく罪なことだと思えた。 「……おいしい」 そんな僕を見て、ユウが微笑む。僕のことが憎くないんだろうか。 どうしてユウは僕にあんなことをしたんだろう。 どうして今は優しくしてくれるんだろう。 どうしてここにいろと言うんだろう。 答えはわからないままだ。 シャワーを浴びて寝室に戻ると、ユウがソファに座って寛いでいた。 用意してくれていた部屋着のサイズが身体に合うことに、僕は驚いていた。 「いつの間に用意したの?」 まるで、こうなることがわかっていたみたいだ。 ユウは黙ったまま、愉悦を含んだ笑みを浮かべている。 「僕、どこで寝ればいい?」 そう訊くと、ユウはうっとりするぐらいきれいに微笑んだ。 「一緒に寝るか」 思わず身構えると、ユウはソファから立ち上がって、後ずさる僕の腕を緩く掴む。 「大丈夫だ。何もしない」 僕はその美しい鳶色の瞳をじっと見つめる。いつもの優しいユウだ。昼間のことは何かの間違いだったのかもしれない。そう思うほどに穏やかな眼差しだった。 「眠る度に、サキの夢を見るんだ」 僕の言葉にユウはわずかに目を細める。 「いい夢も悪い夢も、全部がサキの夢だ。目が覚めてサキがいない現実に戻る度に、僕は一人だと気づいて死にたくて堪らなくなる。眠るのが怖い。でも、眠ればサキに会える」 夢の中のサキは、僕に会いたいと思ってくれているのだろうか。それとも──。 「お前が目覚めたときには、必ず俺が傍にいる」 ユウはそう言って僕の頬に触れる。その手の熱は、僕の肌の温度より少しだけ低かった。 「だから、ゆっくり休め」 雲の上のような寝心地のベッドで、うとうとと微睡む。あんなに眠ったはずなのに、眠くて堪らなかった。 抱き寄せてくれるユウの体温が心地よくて、ふわふわと意識が漂う感覚がする。この世界に生まれる前にいた胎内は、こんな感じだったのかもしれない。 もしかすると、僕の還る場所はここなんだろうか。そんなはずはないのに、なぜかそう思った。 「おやすみ、アスカ」 目を閉じている僕の唇を、ユウが指でなぞる。その後に訪れるのは、触れるだけの優しいキス。 遠退く意識の中で、これがユウと交わす初めてのキスだと気づいた。 今夜は、夢を見ないかもしれない。 それがいいことなのか悪いことなのか自分でもわからないまま、意識は仄かに堕ちていく。

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