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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 2nd day 1

遮光カーテンの隙間から、朝陽がこぼれ落ちている。 ユウの腕の中でゆっくりと覚醒していく。 久しぶりに夢を見なかった。 人は眠っているときには必ず夢を見るというから、正確に言えば憶えていないだけかもしれない。それでも昨日までよりは、よく眠れた気がする。少しだけ気分がすっきりとしていた。 僕を抱きしめる人の顔を見上げる。ユウはしっかりと目を開けて僕を見ていた。 「起きてたの?」 ユウの瞳はサキと同じ色をしている。やや淡い色の瞳は、光があたれば高級なクリスタルガラスのように煌めく。 昨夜約束したとおり、僕が起きるまでじっと待っていてくれたのだろう。 ベッドから起き上がって、ユウは僕の頬に触れる。 「何か食べるか」 「いつも朝は食べないんだ」 かぶりを振る僕を、優しく抱き起こしてくれた。まるで子どもにするように。 「ここでは俺に付き合え、いいな」 その口調は優しい。頷いた僕はユウの後に続いて寝室を出た。 眠気覚ましにシャワーを浴びて扉を開けると、リビングには香しい匂いが漂っていた。 キッチンカウンターに大小の白い器が並ぶ。賽の目に刻まれた色とりどりの野菜が入った黄金色のスープ。焼きたてのマフィン。冷たいミルク。 カウンターのバーチェアに、ユウと並んで腰掛ける。 「食べられるだけでいい」 お腹は全然空いていないけど、せっかく作ってくれたものに手をつけないのは気が引ける。そっとスープを口に入れれば、野菜の甘味が滲み出た優しい味がした。こくりと飲み下して、隣で僕の様子を見つめるユウに話し掛ける。 「ユウは、僕のお父さんみたいだね」 そう言うと目を細めて苦笑する。僕より十八歳上のユウは、きっと僕の父とそれほど年が離れていないはずだ。 「ユウは僕の父さんのこと、知ってるの?」 「何年かは、隣に住んでいたからな」 ユウはそれ以上何も言わなかった。だから、僕も追及しない。 僕は父を知らない。物心ついた頃には、既に父は家を出ていたからだ。 両親が離婚した理由が父の異性関係ではないかと思うようになったのは、僕が中学生の頃だった。誰から聞いたというわけではないけれど、母の態度を見ているとなんとなくそうではないかという気がしていた。 僕は父に会ったこともなければ、写真を見たこともない。今どこで何をしているのか、そもそも生きているのかどうか、更に言えば名前さえ知らない。家では父の話題は禁忌で、口にすることが許されなかったからだ。 自分の父がどんな人か、全く興味がないと言えば嘘になる。けれどいないものとして育ってきたから、会いたいとは思わない。会ったところで僕は困惑してしまうだろう。 昨日のようなことをされても僕がユウに受け容れられたいと思ってしまうのは、会ったこともない父の代わりとして慕っているからかもしれない。 朝食はそれほど量がなかったから、残すのも忍びなくて結局全部食べることができた。 ユウと一緒に食器を片付けながらふと不安になる。これからどうするのだろう。ユウは全く外に出る気はなさそうだった。 片付けを終えて、誘われるままにリビングのソファに隣り合って腰掛けた。 「ユウ。僕が知らないサキの話を教えて」 そう口にすれば、ユウは長い脚を組みながら僕に視線を流す。 「俺が家を出たのはサキが十歳の頃になる。だから、俺よりお前の方がよっぽどよく知ってるはずだ」 でも僕は、期待を込めてユウを見つめる。 サキのことを少しでも知りたい。僕はサキの病気がわかってからは、本当に何も知らなかったのだと何度もはっきりと思い知らされたから。 「サキはあまり泣かない子どもだった」 じっと待つ僕に根負けしたのか、ユウが口を開く。その唇から紡がれるのは、僕の知らないサキのことだった。 「俺とは年の離れた弟で、周りから一心に愛情を受けられる環境にいるのに、サキは誰かに甘えたり頼ったりすることが苦手だった。小さな頃から、転んでは誰の手も借りずに一人で立ち、泣いたり怒ったりというような感情を剥き出しにすることがなかった。感情を自分で処理できる、大人の手を煩わせない聡明な子どもだったんだ。頭が良過ぎたかのかもしれないな。俺はそんなサキをかわいいと思う反面、かわいそうだと思ってた」 「かわいそう?」 「子どもは子どもらしくいられることが幸せだからだ」 ユウはそう言って少し笑う。淋しそうな笑い方だった。 「そんなサキが人目も憚らず泣くところを、一度だけ見たことがある」 サキの、涙。 胸が苦しくなって、僕はゆっくりと呼吸する。 角部屋で二面がガラス張りになったリビングは射し込む陽で目映いぐらいに明るくて、僕の眼をじりじりと刺激した。 「お前がまだ三歳で、サキが九歳のときのことだ。ルイが近所の友達の家に行っていたから、退屈を持て余してたお前をサキが近所の公園へと連れ出した。しばらくして、サキが血相を変えて帰ってきた。少し目を離した隙に、アスカがいなくなってしまったと」 全然記憶になかった。僕はユウの話に聞き入る。 「お前の母親と、うちの母親と、サキと俺でしばらく辺りを探し回ったが見つからない。警察署で届け出をしている最中に、二キロ程離れたショッピングセンターで小さな子どもが保護されているという連絡が入った。一人で歩いて来たと言っているらしい。パトカーで連れて来られたお前は状況がわかっていなかったんだろう、きょとんとしていた。サキが泣きじゃくりながら真っ先にお前に駆け寄った。そうやって人前で泣くサキを見たのは、後にも先にもその時だけだ」 『アスカ、ごめん……』 幼い頃に聞いた、サキの言葉が蘇る。 映像は浮かばない。でも、その声は憶えている。僕は微かな記憶の糸を必死に手繰り寄せる。 手の温もり。包み込まれるように抱きしめられた感覚。 『もう絶対に、この手を離さないから』 「……僕も、一度だけサキの涙を見たことがあるよ」 いつの間にか僕は泣いていた。ユウが肩を抱き寄せてくれる。 もう二度と感じることのできないあの心地よい体温が恋しくて、僕は涙を流し続けた。

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