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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 2nd day 2

病名がわかってしばらくすると、沙生はもう大学には行かなくなってしまっていた。 左腕が動かないことが、遺伝子工学の研究を続ける妨げになったというのも、理由のひとつだろう。けれど、おそらくそれだけではなかった。 サキの研究室では、抗ガン剤の効果を上げることを目的として、それに対応するタンパク質の研究をしていたという。もしかするとサキは、自らが不治の病に冒されながら他人の病気を治すための研究を続けることがつらくなったのかもしれない。 そして僕もまた、大学には行かなくなっていた。 時々、携帯電話がメッセージを受信する。画面に表示されるのは大学の友達、光希(ミツキ)の名前だ。 何の連絡もなく大学に来なくなった僕を心配してくれているのだろう。一度だけ電話も掛かってきたけれど、誰かと話をすることが怖くて応答できなかった。 だって、何を言えばいいのだろう。この状況を説明することが、とても怖かった。沙生の病気が手の施しようがないぐらい深刻なものだと、認めることになってしまう気がしたから。 沙生のために僕が何をできるのか、考えることにただ必死だった。 少しでも長く傍にいたい。僕が沙生の支えになりたい。 僕は沙生の生きる希望でありたかった。 『沙生……』 そっと名を呼べば、沙生が右腕で僕を抱き寄せてくれる。 少しずつ動かなくなっていく沙生の左腕。今は左腕だけだ。でも、明日はどうなっているかわからない。 ゆっくりと唇を重ねる。沙生を味わおうと舌を絡ませれば、身体が内側から熱を帯びていく。 沙生とひとつになりたくて、僕は疼く身体を持て余す。 身体を重ねることが怖い。 沙生が少しずつ身体に怠さを憶えていることには気づいていた。今まで当たり前のようにしてきたいろんなことができなくなる時が、近いうちに必ず訪れる。その時を迎えることが、僕は怖くて仕方がない。 『沙生、しよう……』 服の裾から手を差し入れて、沙生の素肌をなぞっていく。掌に触れる温もりが愛おしい。沙生の熱が欲しくて堪らない。 『沙生、愛してる』 僕は知っている。沙生がちゃんと眠れていないことも。頻繁に思い詰めた顔をしていることも。病気の薬の他に、カラフルな睡眠剤や安定剤を飲んでいることも。 『……あ……、沙生……っ』 沙生の右手が、僕の一番気持ちいいところを刺激していく。 『飛鳥……』 与えられる熱に浮かされながら、僕は絶望の畔に佇む。 沙生の救いになりたい。なのに無力な僕は、沙生が蝕まれていくのをただ傍観することしかできない。 『瑠衣(ルイ)、どうして僕を避けるの』 久しぶりに入った瑠衣の部屋はどこか殺風景で、以前よりも女の子らしいキラキラした感じが薄れている気がした。 『避けてなんか』 『避けてるよ』 言葉を被せれば、瑠衣は桜色の唇を噛み締める。 ここ数日、瑠衣の様子がおかしいことに気づいていた。ひとつ屋根の下に住んでいる姉が、あからさまに視線を合わせようとしない。まるで僕に怯えているみたいに。 僕たちは仲の良い姉弟だった。瑠衣は弟の僕から見てもとても可憐でかわいい女の人だ。我儘で気が強くて、そんなところも魅力的だと思う。 僕と同じように、瑠衣も子どもの頃から沙生のことが好きだった。僕たちは互いの気持ちを知っていて、何となく牽制し合いながら過ごしてきた。 僕はそこから踏み出して沙生に想いを伝えてしまったけど、瑠衣は僕たちのことをちゃんと認めてくれていた。少なくとも、僕にはそう見えた。 ──沙生はあんたにあげる。 僕が初めて沙生と結ばれたとき、瑠衣はそう言った。 ──でも、ちゃんと掴まえておかないと、いつでも奪う準備はできてるからね。 『瑠衣、本当のことを言って』 瑠衣を詰問しながら、すごく嫌な予感がしていた。予感というより確信だ。瑠衣が僕と目を合わさない理由なんて、ひとつしかないと思った。 『瑠衣、沙生と何があった?』 瑠衣はビクリと身体を震わせた。肯定と同然だ。 『お願いだ、瑠衣』 ちゃんと、本当のことを言って。 そう心の中で訴えながら見つめれば、瑠衣は俯いたまま視線だけを僕に向けた。その瞳に宿る光は、今までに見たことがないぐらい強い。 観念したのではない。宣戦布告だと感じた。 『私、沙生としたわ』 何を、とは訊けなかった。なのに、瑠衣は畳み掛けるように言葉を続ける。 『沙生とセックスした』 『嘘だ』 『本当よ。もう一週間も前になる』 瑠衣はもう怯えていなかった。怯えているのは、僕の方だ。 『沙生が、そんなこと』 するはずがない。だって、沙生は全然そんな素振りを見せなかった。よりによって、どうして、瑠衣と。 『沙生に訊いてみればいい』 いつの間にか、僕が追い詰められる側になっていた。 『私は謝らない。後悔してないもの』 心の奥底に、どす黒い澱が雪のように積もっていく。自分の中にこれほど醜い感情があるなんて知らなかった。 それでも、僕は瑠衣を責められない。瑠衣がこれまでに見たことがないぐらい悲愴な顔をしていたからだ。

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