100 / 337

act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 2nd day 3

部屋に入ってきた僕の顔を見て、沙生は全てを悟ったみたいだった。 『飛鳥、聞いたんだね』 そう言って、諦めたような穏やかな微笑みを見せる。 沙生の口から、ちゃんと聞きたかった。瑠衣と一緒に僕をからかってみただけだって。だって、沙生がそんなひどいことをするはずがない。 『沙生……冗談だよね』 声がひどく震えた。沙生は真っ直ぐに僕を見て、落ち着いた声で告げる。 『本当だ。飛鳥、俺は瑠衣を抱いた』 飛び込んできた言葉が頭の中で渦を巻く。僕の中で大切にしていた何かが音を立てて崩れていく気がした。 『どうして……』 唇からこぼれる声は、自分のものとは思えないぐらい嗄れていた。 『どうして、こんな時に。そんな身体で』 視界が霞んでいく。今まで僕が沙生といたことは、何だったんだろう。何もかもが虚しくて、でも何よりも赦せないのは。 『どうして、よりによって瑠衣なんだ』 こうして沙生を責めてしまう僕自身のことだ。 僕では駄目だったんだ。沙生が瑠衣のところへ行ってしまったのは、僕が沙生のことを支えてあげられなかったから。 だったら悪いのは、僕だ。 『飛鳥』 沙生が僕の腕を掴む。振り解こうとするのに、その力は強かった。 『いやだ……っ』 『飛鳥、愛してる』 美しい鳶色の瞳に、愚かに涙を流す僕の顔が映っていた。 『飛鳥を愛してるから、瑠衣を抱いた』 そんなことを言って、沙生は残酷なほどきれいに笑う。 『意味がわからないよ』 聞きたかったのは、そんな言葉ではなかった。 『沙生、僕のどこが悪かった? 悪いところがあるなら、言ってくれれば』 いうとおりにしたのに。その先は唇を塞がれて言えなくなる。 『……っ、や……』 沙生が僕の身体を抱きしめる。逃れようとするのに、その力は思いの外強くて振り解けない。沙生がくれるキスは、僕の全てを浚うほどに熱い。 こんなキスを瑠衣にもしたの? お願いだ、沙生。これ以上僕を惨めにさせないで。 『さ、き……』 ひんやりとした掌が僕の身体を弄っていく。瑠衣を触った手で僕に触らないで。 『も……、や……っ』 沙生は僕の全てなんだ。僕から沙生を奪わないで。 『……沙生……ぁ……ッ』 性急な衣擦れの音が耳を刺激すれば全ての醜い感情が流されて、はしたない欲情にすり替わる。 本当は振り解けたんだ。沙生の左腕にはもうほとんど力が入らないのだから。それを振り解かなかったのは──。 『飛鳥、愛してる』 僕の、弱さだ。 僕は涙を流しながら、求められるままに身体を委ねていた。 「アスカ」 僕の名を呼ぶ、低く艶やかな声が聞こえた。頬に手をあてられて、急に現実に引き戻される。 「ごめんなさい」 僕を心配そうに覗き込むユウの表情が、少しサキに似ていると思った。 「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてただけ。大丈夫」 もう一度謝ると、ユウは僕の脇の下に手を入れて、ソファから抱き起こしてくれた。 一日が終わろうとしていた。どんなにつらく哀しくても、時間は止まらない。誰しもに等しく時は過ぎていく。 「そろそろ休むか。シャワーを浴びて来い」 ユウの言葉に僕は頷いて、バスルームに向かう。 天井を仰ぎながら頭からシャワーを浴びてじっと立ち尽くす。全てを洗い流してリセットしたいと願うのに、いくら時間が経っても心許なくて、妙な浮遊感だけが残る。 心が身体から乖離してしまっている。僕の魂がこの身体に留まることは、きっと赦されないのだろう。 このまま水に溶けて、流転しながら空へ還りたい。 それは叶わない願いだ。

ともだちにシェアしよう!