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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 2nd day 3
部屋に入ってきた僕の顔を見て、沙生は全てを悟ったみたいだった。
『飛鳥、聞いたんだね』
そう言って、諦めたような穏やかな微笑みを見せる。
沙生の口から、ちゃんと聞きたかった。瑠衣と一緒に僕をからかってみただけだって。だって、沙生がそんなひどいことをするはずがない。
『沙生……冗談だよね』
声がひどく震えた。沙生は真っ直ぐに僕を見て、落ち着いた声で告げる。
『本当だ。飛鳥、俺は瑠衣を抱いた』
飛び込んできた言葉が頭の中で渦を巻く。僕の中で大切にしていた何かが音を立てて崩れていく気がした。
『どうして……』
唇からこぼれる声は、自分のものとは思えないぐらい嗄れていた。
『どうして、こんな時に。そんな身体で』
視界が霞んでいく。今まで僕が沙生といたことは、何だったんだろう。何もかもが虚しくて、でも何よりも赦せないのは。
『どうして、よりによって瑠衣なんだ』
こうして沙生を責めてしまう僕自身のことだ。
僕では駄目だったんだ。沙生が瑠衣のところへ行ってしまったのは、僕が沙生のことを支えてあげられなかったから。
だったら悪いのは、僕だ。
『飛鳥』
沙生が僕の腕を掴む。振り解こうとするのに、その力は強かった。
『いやだ……っ』
『飛鳥、愛してる』
美しい鳶色の瞳に、愚かに涙を流す僕の顔が映っていた。
『飛鳥を愛してるから、瑠衣を抱いた』
そんなことを言って、沙生は残酷なほどきれいに笑う。
『意味がわからないよ』
聞きたかったのは、そんな言葉ではなかった。
『沙生、僕のどこが悪かった? 悪いところがあるなら、言ってくれれば』
いうとおりにしたのに。その先は唇を塞がれて言えなくなる。
『……っ、や……』
沙生が僕の身体を抱きしめる。逃れようとするのに、その力は思いの外強くて振り解けない。沙生がくれるキスは、僕の全てを浚うほどに熱い。
こんなキスを瑠衣にもしたの?
お願いだ、沙生。これ以上僕を惨めにさせないで。
『さ、き……』
ひんやりとした掌が僕の身体を弄っていく。瑠衣を触った手で僕に触らないで。
『も……、や……っ』
沙生は僕の全てなんだ。僕から沙生を奪わないで。
『……沙生……ぁ……ッ』
性急な衣擦れの音が耳を刺激すれば全ての醜い感情が流されて、はしたない欲情にすり替わる。
本当は振り解けたんだ。沙生の左腕にはもうほとんど力が入らないのだから。それを振り解かなかったのは──。
『飛鳥、愛してる』
僕の、弱さだ。
僕は涙を流しながら、求められるままに身体を委ねていた。
「アスカ」
僕の名を呼ぶ、低く艶やかな声が聞こえた。頬に手をあてられて、急に現実に引き戻される。
「ごめんなさい」
僕を心配そうに覗き込むユウの表情が、少しサキに似ていると思った。
「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてただけ。大丈夫」
もう一度謝ると、ユウは僕の脇の下に手を入れて、ソファから抱き起こしてくれた。
一日が終わろうとしていた。どんなにつらく哀しくても、時間は止まらない。誰しもに等しく時は過ぎていく。
「そろそろ休むか。シャワーを浴びて来い」
ユウの言葉に僕は頷いて、バスルームに向かう。
天井を仰ぎながら頭からシャワーを浴びてじっと立ち尽くす。全てを洗い流してリセットしたいと願うのに、いくら時間が経っても心許なくて、妙な浮遊感だけが残る。
心が身体から乖離してしまっている。僕の魂がこの身体に留まることは、きっと赦されないのだろう。
このまま水に溶けて、流転しながら空へ還りたい。
それは叶わない願いだ。
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