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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 4th day 2

沙生が入院してから、一週間が経とうとしていた。 いつも面会が始まる時間に合わせて家を出ているけど、今日は道路が空いていて、バスが少し早く着いてしまった。 病室のフロアに向かうエレベーターの中で、沙生に旅行のことを提案してみようと考える。 この頃、沙生は病気のことを気にして、外に出るのを極力避けるようになっていた。 僕がついているから大丈夫だって説得しよう。二人でいろんな想い出を作りたいと言えば、きっと沙生も賛成してくれるはずだ。 ナースステーションの前で白い床を見つめながら午後一時になるのを待っていると、僕の姿を見つけた川上さんがそっと目配せしてくれた。 少し早いけど、行ってもいいよ。──そんな声が聞こえた。 僕は小さく頷いて、足早に沙生の病室へ向かう。今日はいつもより数分早く沙生に会える。それが本当に嬉しい。 病室の扉に手を掛けようとしたそのとき、部屋の中から沙生の話し声が聞こえてきた。 誰がいるのだろうか。川上さんはナースステーションにいたし、面会時間もまだ始まっていないのに。 扉に手を掛けたまましばらく立ちすくんでいると、沙生以外の声が聞こえないことに気づく。 電話で話をしているんだ。 僕は邪魔にならないように、音を立てず扉を開けてみる。沙生はベッドに腰掛けながら、大きく開いた窓の方を向いて受話器を手にしていた。全く僕に気づく様子がない。 『本当にありがとう。身勝手なことはわかってる。それでも』 沙生の嬉しそうな声が、僕の理性を揺さぶり狂わせていく。 嫌な予感しかしない。聞いては駄目だ。僕は今、ここにいてはいけない。なのに、僕は。 『どうか、俺の望みを叶えてほしい──瑠衣』 知らない振りをすることができなかった。 『沙生』 上擦って震える僕の声に反応して、沙生が振り返る。病室に備え付けられた電話の受話器を置くその音が、やけに耳障りだった。 『どういうこと?』 僕を見つめる沙生の表情からは、感情が読み取れない。僕は沙生に向かって重い身体をゆっくりと引き摺っていく。 『僕に隠れて瑠衣と連絡を取って、会ってたんだ』 『違う、飛鳥』 『何が違うんだ……沙生』 僕の中から醜く汚い感情が衝動的に湧き起こっては、澱のように心の奥底へと沈んでいく。 『あのことで僕がどれだけ傷ついたかわかる? すごく苦しんだよ。それでも好きだから沙生の傍にいたかった。全部赦さなければいけないと思った。だって悪いのは僕だったんだ。僕が支えてあげられなかったから、沙生は瑠衣と』 『飛鳥』 伸ばされた右手を、僕は払いのける。視界が淡く濁ったかと思うと一瞬で涙が溢れて頬を伝っていく。 抑え切れない情動が、頭で考えるより先に次々と口をついて出た。 『沙生の希望になりたかった。僕なりに頑張ったつもりだ。でも、もう無理だ。堪えられない。こんなにつらい思いをするぐらいなら、僕は沙生と一緒にいたくない。沙生なんて──』 僕は言ってしまう。決して口にしてはいけない、呪詛を。 『沙生なんて、いなくなればいい』 鳶色の双眸が、見開かれる。 堰き止められた時の狭間で、世界の色が消えていく。 沙生の右腕が僕を強い力で引き寄せて、息もできないぐらいきつく抱きしめられた。 『愛してる』 抵抗する(いとま)さえ与えられず唇が重なる。沙生の心は僕の中に流れてこない。 プラスチックみたいなキス。 『飛鳥、生きてくれ』 唇を離した沙生は、今までに見たことがないぐらい穏やかな顔をしていた。 『愛してるから、生きてくれ』 僕の目の前で、きれいな鳶色の瞳が陽の光を反射してクリスタルガラスのように鮮やかに煌めく。 その輝きは一瞬で僕の全てを絡め取り、縛りつける。 『沙生……』 名前を口にした途端──ドン、と大きく突き飛ばされて、勢いよく後ろに倒れ込んでしまう。 驚く僕の目の前で、沙生は開かれた窓を軽やかに乗り越える。まるで、美しい鳥が大空へ飛び立つみたいに。 『沙生……!』 必死に起き上がってベッドを乗り越え、窓から身を乗り出す。覗き込めば、遥か下の方で倒れている姿が見えた。 アスファルトに赤黒い血溜まりがしみのように広がっていく。 ああ、沙生の身体から愛おしい生命が流れてしまう。 ──飛鳥。 耳元で聴こえる沙生の優しい声に、僕は頷きながら答える。 ──沙生。 唇に残る柔らかな感覚が、僕を甘やかに(いざな)う。 ──沙生、大丈夫だよ……僕もそこに行くから。 動かなくなった沙生に向かって手を伸ばしても届かない。 もう一度愛する人に触れたくて、窓枠に片脚を掛け、地面を目掛けて頭から真っ直ぐに飛び込んでいく。

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