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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 4th day 3

強い重力に引き摺られる僕の身体を、誰かが強い力で羽交い締めにした。 『飛鳥!』 もつれるように後ろのベッドに倒れて、その勢いで身体が大きく跳ね上がる。振り返ればそこには、ひどく懐かしい顔があった。 『侑、離して……!』 深い海の中でもがくように、手脚の自由が利かない。 『沙生! 沙生!』 起き上がろうと身を捩らせれば、そのままベッドの上で身体が反転し、組み敷かれる。上から押さえ付けられるその重みで、うまく息ができない。苦しくて咳き込むと、ほんの少しだけ胸の圧迫感が緩んだ。 自由になりたくて必死に手足に力を入れるのに、僕はあまりにも無力だった。どれだけ力を込めて押しのけようとしても、身動きさえ取れない。 『駄目だ、飛鳥』 どうして邪魔をするんだ。今行かなければ、もう二度と会えなくなる。 『沙生の、ところ……行かせて……』 体温を奪われたように身体の芯が震えて止まらない。淡く濁る視界がゆらゆらと歪んでは液体となり、こぼれて肌を濡らしていく。 沙生を失った世界はこんなにも冷たく揺れている。 『侑……お願い』 喉から声を絞り出す僕の耳元で、荒い息遣いに混じって悲痛な懇願が聞こえた。 『頼む、飛鳥……お前は行くな』 沙生、いなくなればいいなんて嘘だ。愛されていなくてもよかったんだ。 どんな沙生でもいい。ただ、傍にいたかった。 サキは僕の世界の全てだった。 だから、サキのいないこの場所はこんなにも空虚だ。 罪を背負った僕は死んでサキに会うことさえ赦されず、あてもなくこの悪夢を彷徨い続ける。 夜の帳が下りようとしていた。 リビングを覆う大きな窓から外を眺めると、煌めく街のイルミネーションが暗い海に浮かぶ宝石のように瞬いていた。 「ユウ、何か作るよ」 夕食の用意を始めようとするユウに声を掛けてキッチンへと向かう。白い大理石のカウンターに手際良く食材を並べていくその手がとてもきれいだと思った。 「じゃあ、手伝ってくれ」 その言葉に頷いて、ユウの隣に立つ。 「こうして二人でキッチンに並んでると、家族になったみたいだね」 「そうだな」 ユウは優しい眼差しで僕を見下ろして微笑んだ。 チーズをすりおろしたシーザーサラダ。黄金色のオリーブオイルが絡んだシンプルなペペロンチーノのパスタ。赤いミネストローネ。香草をまぶした豚ロース肉のソテー。 ユウと一緒に作ってカウンターに並べた料理が暖色のLEDライトに照らされる。とても彩りがよくて美しい。 出来上がった料理をダイニングテーブルに運んでいく。ガラス製の天板に並べると、白い器やカラフルな食材が一層よく映えておいしそうに見えた。 僕たちは向かい合って椅子に掛ける。窓の外に広がるのは、夜の海に似た闇。たくさんの光の粒が煌めいて漂い揺れていた。 「ねえ、ユウ」 ワインボトルの栓を開けようとするその手を、僕は制した。 「今夜は飲まないで」 ユウはじっと僕を見つめて、何も言わずにボトルをテーブルに置く。代わりに緑色の瓶に手をかけて、栓を捻った。 細やかな泡を立てながら、僕のグラスに水が注がれる。その瓶を受け取って、僕もユウのグラスに注ぎ返した。 「乾杯」 今日は全てが終わって、始まりの日になる。 シャワーを浴び終えて、バスタオルで濡れた身体を丁寧に拭く。少し迷ったけれど、何も身に纏わず寝室へと向かった。 扉を開ければ薄暗い室内で一灯のダウンライトが放射状に淡く光を放っていた。 ソファにはバスローブに身を包んだユウが掛けている。部屋に入ってきた僕を見て少しだけ目を細めた。 「アスカ」 その手に持つグラスの中身はきっと、夕食で飲んだのと同じスパークリングウォーターだ。渡されたグラスを受け取って、泡立つ液体を口に含む。 一口目で喉を潤し、二口目は飲み込まずに立ったままそっと屈んでユウに口づける。重なる唇がゆっくりと開いて、そこから流し込んだ水が、残らず飲み下されていく。 唇を離して、僕は床に跪いた。ユウは僕の手からグラスを取り、一気に呷る。そのまま僕の髪に手を埋めて、覆いかぶさるように口づけた。唇を割って流れ込んでくる液体を、こぼさないよう必死に飲み込む。 「ユウ……僕はサキを殺した」 鳶色の瞳が小さな光を灯して煌めく。サキの瞳に、僕は罪を懺悔する。 「誰かを救える人間になれば、僕は赦されるだろうか」 自分の声が遠くで奏でられる旋律のようだ。薄闇の中、ユウは僕の言葉をただ静かに聞いていた。 「でも、今のままの僕では無理だ」 僕が赦しを乞うのは神様なんだろうか、それとも──。 髪に掛かるユウの片手が、滑るように降りてきて僕の頬を包み込む。交わされる口づけは、性的なものではなかった。逸る鼓動が落ち着いていくような、清らかで美しい時間を作り出して、柔らかな唇はそっと離れていく。 「こんな僕は、今日で終わらせたい」 そうだ。僕は一度死ななければならない。そのために、この闇の底に目の前の人を引き摺り落とす。 「ユウ、抱いて……」

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