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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 4th day 6
気がつけば僕は家を飛び出していた。
虚ろな魂を肉体に宿したまま、亡霊のように街を彷徨い続ける。自分が自分でないみたいにふわふわと浮ついて、足取りがおぼつかない。微弱な陽射しを暑く感じるのに、身体の震えは止まらなかった。
鋭い何かで貫かれたように胸が痛くて堪らないけれど、心からは血が流れない。息苦しさに喘ぐような呼吸を繰り返しながら、胸もとを押さえて立ち止まる。
その瞬間、足元がぐらりと揺らいで、ひどい眩暈に襲われた。視界が淡く歪んでいく。
揺らめく世界は水の中のようで、光を鈍く反射して煌めく。
深い深いその底で立ち竦みながら、僕は水面の向こうの空を見上げる。
絡み合った螺旋から解け落ちる、懐かしい記憶。
あれは、いつのことだっただろう。
まだサキに想いを伝える前。身勝手に傷ついた気になって、今と同じようにあてもなく一人で街を徘徊したことがあった。
そんな僕を、サキは必死に捜し出してくれた。優しく頭を撫でて、しっかりと抱きしめて。
──心配させた、罰だよ。
そう言って、優しくキスをしてくれたサキ。
不安定に揺れる世界が見せる美しい幻は、泡のように立ち昇り消えていく。
こぼれた温もりをこの掌はまだ憶えているのに、もうサキは僕を捜してくれない。
サキ。どんなにつらく苦しいものでもいいよ。
その手で僕を抱いて、もう一度罰を与えて──。
窓の向こうに月が浮かんでいる。
ベッドの中で、僕は背後からユウに抱かれながら満月に近い形の月を見ていた。
不思議だった。あんなに苦しかったのに今は気持ちがとても穏やかで、憑き物が落ちたかのように心が軽い。
ああ、僕はちゃんと目的を遂げられたんだ。
「ユウ……」
名前を唱えてそっと腕を握りしめる。ずっと抱き合っているせいか、ふたつの身体は同じ体温になっていた。
僕の顔を見下ろす眼差しは本当に優しい。クリスタルガラスのように美しく煌めく鳶色の瞳。
大切なその輝きを、僕は壊してしまった。砕け散ったガラスは、二度と元には戻らない。
「アスカ」
耳元で囁く声が少しくすぐったくて身を捩る。そんな僕の顔を見て微笑むユウは、きっと僕が誰を想っていたかをわかっている。
「仕事の話だ」
「──うん」
ユウは僕の頭をそっと撫でて、丁寧に髪を梳いていく。
「俺がお前を必要とする者と契約する。お前は何日かをその相手と一緒に過ごす。相手と真剣に向き合って、望まれたことをするんだ」
「それが、僕の仕事?」
ユウが話すことは、荒唐無稽だと思った。そんな仕事は聞いたことがなかったから。
「僕にできるかな」
無理だよ。僕には何の力もないんだ。こんな僕を必要としてくれる人なんて、いるわけがない。
「お前なら大丈夫だ」
なのに、どうしてユウは何かを確信するかのように断言するのだろう。
「やめたくなれば、いつでもやめていい。お前の好きなようにやってみろ」
「わかった」
できないと言う権利はなかった。ただ頷くしかない。
そして僕は思い出す。この場所で自分の罪と向き合いながら過ごした日々を。
人が生まれ変わるのに必要な最低の時間。それは、きっと。
「四日間」
僕の言葉に、身体に回された腕がわずかに緩んだ。
「その人と過ごすのは、四日間だけだ。四日目を終えたその瞬間、僕はその人から離れて──」
ユウの腕の中で身体を反転させる。見上げれば、そこには美しい鳶色の瞳があった。
「必ず、ここへ還ってくる」
ここは、懺悔することさえ赦されない僕を受け入れてくれる唯一の聖域。この腕の中が、僕の還る場所になる。
腕を伸ばしてユウの背中に回せば、掌にしっとりと肌が吸いつく。体温が融け合っていく感覚が心地よい。
何度も果てたことで気怠い熱を発する身体を持て余して、急激な眠気に襲われる。
ああ、眠ってはいけない。まだ言わなければいけないことがあるから。
「ユウ、ありがとう」
微睡みの中で、僕はそっと想いを紡ぐ。
「あのときユウが偶然来てくれなければ、僕はサキの後を追って……」
言葉を遮るように、髪に顔が埋められる。それが本当に気持ちよくて、意識が夢の中にいるようにふわふわと漂う。
「おやすみ、アスカ」
低く響く優しい声に誘われて、僕は緩やかに堕ちていく。
「おやすみなさい……」
午前0時。
罪の赦しを請うために、全てを忘れて僕は生まれ変わる。
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