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act.6 Platinum Kiss 〜 the 2nd day 7
強いアルコール臭が鼻を強く刺激する。一体どれだけの量を飲めばこんなにおいがするようになるのだろう。
『空、どうしたんだ』
空に対して抱いていた想いはとうに消えているはずなのに、腕の中で今にも崩れてしまいそうな空を前にして、俺の口調はひどく優しくなっていた。
『一海、酒井さんがね、私とは結婚できないって』
空はしゃくり上げながら、あの下らない男の名を易々と口にした。
『私、あの人に捨てられたの。約束してたのに。愛してるのは私だけって、そう言ったのに……!』
なんて馬鹿な女なんだろう。
瞬時に胸の中に湧き起こった憎悪は、焔となり我が身を焼き尽くしていく。
その灼熱に駆り立てられるように、俺は屈み込んで力任せに空を抱え上げた。
『あ……っ、一海……』
驚いて小さく声をあげる空に構わず、そのまま歩きだす。腕の中にある身体は子どものように軽かった。
一番手前の扉を開けると、クイーンサイズのベッドが目に飛び込んできた。その上に空を放り投げるように手を離し、馬乗りになる。
心臓が壊れてしまったかのように早鐘を打っていた。
空が目を見開いて俺を見上げていた。その目尻から、次々に涙がこぼれ落ちてはシーツを濡らしていく。
『──かずみ』
鈴の音に似た澄んだ美しい声が、張り詰めた空気を柔らかく震わせた。
荒く呼吸しながら見下ろす俺に、空は白く細い両腕を精一杯伸ばす。まるで溺れる者が水面で宙を掻くかのように、差し出されたその手は弧を描き俺の腕を掴んだ。
『お願い。抱いて』
悪夢に追われた女は、目の前の者が罪人であることも知らずに救いを求める。
闇夜に濡れた瞳がただ一心に俺を求め、縋っていた。
『私を……抱いて』
赤く濡れた唇は禁断の果実のように艶めいて光り、俺を甘く誘う。
それを食むように覆い被さって口づける。ない交ぜになった体温に、罪の意識は容易く灼き切れた。
暗がりの中で俺たちは人知れずただの男と女になった。
啜り泣きながら嬌声をあげて開くその身体に、幾度も楔を打ちつけては沈み込む。
『一海、愛してる』
耳に届く告白は、誰かに縋るためだけに奏でられたもの。
だからそれ以上罪を重ねることのないよう、濡れた唇を言葉ごと塞ぐ。
いつからこうしたいと願っていたのだろう。昂ぶる激情に流されながらも頭の片隅はひどく醒めていた。
そして、長い間抱いていた感情や欲望の全てを空の胎内に放ったその瞬間、俺はようやく気づく。
空を残して全ての家族を奪われたと思っていた、幼い頃の記憶。業火のように揺らぎ燃え盛る焔。
あの時、俺は既に姉をも失っていたのかもしれない。
全てが終わった後、空は仰向けになったまま俺には目を向けずに白い天井を見上げ、虚ろな顔で放心していた。
俺はそんな空を見下ろして、そのふくよかな胸から細くくびれた腰までを視線でなぞっていく。闇に浮かび上がる肌は艶かしいまでに白く美しい。
俺の知らない身体を曝け出すこの女は、それでも他人ではなく確かに血の繋がった姉に違いなかった。
『一海』
美しく澄んだ声は、幻想のように妖しく俺を絡み取る。
『一海が、弟じゃなければよかった』
俺も全く同じことを思っていた。けれど、それを口にするわけにはいかない。
悪い酔いから醒めた後のように、俺はふらつきを覚えたままベッドから降りて立ち上がる。
脱ぎ捨てた服を着ながら、ひどく惨めで虚しい気持ちに襲われていた。
『誰でもいいから寝たいと思ってたんだよ。ちょうどよかった』
感情を押し殺しながらそう口にすれば、放たれた言葉は程よい加減で冷たく響いた。見開かれた空の目がみるみる潤みを湛えて、その目尻からまた涙がこぼれていく。
『一海……』
『俺が無理に抱いたんだ、空』
言い聞かせるようにそう吐き捨てて、俺は空から目を逸らした。
『もうここへは二度と来ない』
恋愛感情など伴わない、戯れで犯した一夜の過ちとして済ませたかった。
禁忌に踏み入れば、人はいつか必ず報復を迎えるだろう。
俺はかまわない。でも、空は駄目だ。堕ちていくのは俺だけでいい。
しゃくり上げながら涙を流し続ける空を残して、俺は振り返りもせず部屋を立ち去った。
空の傍にいたい。抱きしめてキスをして身体を重ねて、募り募ったこの想いが満たされるまで愛し合いたい。
けれど、それは赦されない。
見上げれば星ひとつ見えない澱んだ闇が人工の灯りを呑むように世界を覆っていた。
夜が明ける前の風はひどく冷たく、呼吸する度に身体の芯が硬く凍てついていく。
それにもかかわらず、今しがたまで確かに腕の中にあったぬくもりの記憶は、鮮明に蘇って俺を苦しめた。
この世界に数多存在する男の中で、俺だけが空を幸せにできない。
ソファに掛けたままアスカに持たせた携帯の番号に架ければ、三度目のコールで通話状態になった。
携帯電話をすぐ傍に置いているのだろう。二人の会話がはっきりと聴こえてくる。
『エイジさん』
甘く囁くように、アスカがあの男に呼び掛ける。
『僕、あなたのことが大好きだよ……』
愛を語る声は、それが偽りであるとは到底思えないほど嫋やかに潤んでいた。
『アスカ』
あの男の声がした。アスカの声と同じ距離感なのは、抱き合いながらの睦言だからかもしれない。
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