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act.6 Platinum Kiss 〜 the 2nd day 8 ※

暗闇の中、あの男の声が響き渡る。 『俺には家族がいないんだ。子どもの頃に両親を亡くしてから親戚の家と施設を転々としてきた。厄介者扱いをされてずっと一人だったから人を信じられないし、これからも誰かを好きになることはない。そう思って生きてきた』 同情を誘い相手の気を引こうとするのは、女を騙し続けてきた詐欺師の卑劣な常套手段に他ならない。こんな男の言葉を間に受けて絆された空は、どこまでも愚かな女だったのだろう。 『僕のことも、そうなんだね』 弱気な言葉とは裏腹に、その声からは相手の否定を促すような強い意識が感じられた。 『……アスカは不思議な子だね』 わずかな沈黙の後に小さなリップ音が鳴って、二人がキスを交わしているのだとわかった。 『アスカと一緒にいると、本当に癒されるんだ。だけど、それと同時に胸が苦しくなる』 どの口がそんなことを言うのだろう。くだらない男だ。心の底からそう思った。 『僕もだよ。あなたといると、胸が痛くなる』 アスカの声音は不思議な響きをしている。聴く者を柔らかく包み込むような、澄んだ音だ。 『僕たちは、同じものを抱えているのかもしれない……』 甘やかに奏でられる言葉は、人の意識を巧みに操る力を持つ。 我が身を削ぎながら、アスカはいとも容易く相手の懐に入り込んで侵食している。俺の期待していた以上に。 『エイジさん、先にバスルームへ行ってて。僕も用意してすぐに行くから』 『待ってるよ』 足音は遠ざかり、開いた扉がまた閉まる音がする。 やがて密やかな息遣いのようなささやかな声が、暗いリビングの空気をそっと震わせた。 『カズミさん。聴いてる?』 まさか話しかけられるとは思っていなかったから、俺は驚きを抑えながら声を潜めた。 「……聴こえてる」 携帯電話の性質上、こちらの声も向こう側に聴こえるようになっている。あいつがアスカの傍にいないことはわかっていたが、それでも俺は気が気ではなかった。 『あの人、明日も明後日も、仕事が終われば僕と会ってくれるって』 そう声を弾ませるアスカが、唐突に幼く感じられた。まるで、大人に褒められるのを期待している子どものようだ。 『きっとうまくいくよ』 『ああ、頼む』 うまくいってくれなければいけないんだ。目的を遂げることが全てで、その手段は問わない。 この計画に失敗は許されない。絶対にだ。 それなのにアスカがあの男に抱かれることを想像するだけで、俺の中にはより一層激しい嫉妬と憎悪が湧き起こる。 高ぶる情動を鎮めるために、身体の内に溜まった闇と共にゆっくりと息を吐き出した。 『……カズミさん?』 ガチャリと扉の開く音がして、俺は呼吸を止める。 あの男が帰ってきたのだろう。アスカが息を飲む音が聴こえてくるような気がした。 気づかれたか? いや──。 『アスカ、どうしたんだ』 愛しい人に対する優しい口振りだ。きっとわずかな疑念も抱いていないのだろう。 『ごめんなさい、今行こうと……あっ』 何かがぶつかるような音の後に、スプリングが派手に軋んだ。 『シャワー、まだ……』 『そのままでいい』 話し声が途切れて、熱を孕む湿った音の合間に吐息混じりの喘ぎが漏れ聴こえてくる。 快楽を訴えるその声に、ゾワゾワと鳥肌が立った。 『……ンッ、あ……』 性急な衣擦れに続くのは、この部屋の空気さえ濡らすような卑猥な水音だ。 『あ、あ……ッ、ん、エイジさ……っ』 甘い声は、やがて啜り泣く嬌声に変わっていく。 『ああ、そ、こ……ァッ』 快楽をねだるその後に、ひときわ高い声が断続的にあがった。きっと達したのだろう。 乱れた呼吸を繰り返しながら、アスカは余韻を吐き出すようにまた小さく喘いだ。 アスカが俺と身体を重ねたときに見せた、官能に揺れる眼差しを思い出す。途端に身を焦がすほどの熱が体内から湧き上がってきた。 そんな俺を刺激するのは、アスカの夢見るような囁きだ。 『……エイジさん、好きだよ……』 そう告げるアスカの声には、確かに甘やかな想いが滲み出ている。 『アスカ……』 スプリングが規則的に軋み始める。肌を打ち付ける音に、辺りの空気まで濡らすような湿った息遣いが重なっていく。 『あ、もっと……奥……んッ』 強い快楽をねだる声は、確かに泣いているように聴こえた。 『もっと……、あっ! あぁ、あ……ッ』 破滅を願うような悲壮な声に、俺は抑えきれない欲情を感じていた。気がつけば熱の滾る自らを取り出し、手を掛けていた。 つまらない欲に塗れたそれを扱きながら、俺は思い出す。他の誰でもない、アスカと身体を重ねたわひとときを。 あの温かく柔らかな口の中。うねるように絡みついてくる、熱く濡れた体内。 部屋に響く淫らな喘ぎ声を聴いているだけで、生々しく蘇る官能の記憶に意識が支配されていく。 息を殺しながら、背筋を伝い上がる快楽に身を任せて俺もまた高みへと昇りつめていた。 『あ、……んッ、ああっ』 追い詰められたアスカの声が部屋に響いて、 それに共鳴するかのように俺の身体の中をドロリとした熱が廻り出す。 しなやかな身体から漂うあの芳しい香りが、鼻を掠める錯覚がした。口にするのを禁じられた果実の匂いは、理性をいとも容易く狂わせる。 『あ、あっ、イく……ッ、あぁ……!』 果てる寸前に迸ったのは、慟哭のようなアスカの声だった。 扉のシリンダーが回る小さな音に、俺は玄関へと向かう。 冷たい明け方の空気と共に、アスカが室内へと入ってきた。亡霊のようにふらつきながら出迎えた俺の姿を見て、アスカがわずかにたじろいだ。 「カズミさん……まだ寝てなかったんだ」 その顔には、行為の後に見られる特有の気怠さが滲んでいる。そのことが余計に俺の神経を逆撫でた。 「どうして帰ってきたんだ」 詰問するような口調でそんなことを言う自分に、われながら戸惑う。 「帰ってこない方がよかった……?」 項垂れてそう口にするアスカはあまりにも淋しげで、ひどく痛々しく見えた。 美しい瞳が泣きだしそうに揺らいでいる。まるで大人に叱られた幼子のようだ。 「あいつに引き止められたんじゃないのか」 剣のある言い方をしてしまう自分を滑稽だと思った。そんな俺を浄化しようとするかのように、アスカは澄んだ眼差しを一心に注ぎ込んでくる。 「家族が心配するから帰りたいって言ったら、ちゃんと帰してくれたよ」 家族、という響きがぎこちなく耳に残る。 アスカと俺は、出会ってまだ二日しか経っていない。たかが五万円の金で繋がっている関係に過ぎないというのに。 「今はカズミさんが僕の家族で、ここが僕の家だ」 そう言うやいなや、アスカは躊躇いもなく俺に抱きついてきた。自らの生命さえも託すかのように。 「カズミさん……ただいま」 燻るように香るのは、もうすっかり憶えてしまった甘い匂い。 他の男に抱かれてあんなにも淫らに喘いでいたアスカが、今は小さな子どものように俺に縋りつく。 さっきまで、ずっと思っていた。 アスカが戻ってくれば、唇を奪いながら押さえつけて床に組み敷いて、鬱屈したこの感情の何もかもを捻じ込むようにその身体を貫きたいと。 なのに、こんなにも全てを委ねられては。 「おかえり、アスカ」 その儚い肢体を、そっと抱き返すことしかできない。

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