137 / 337

act.6 Platinum Kiss 〜 the 3rd day 1

目が覚めると、俺はベッドの中で一人だった。 空いたスペースに手を伸ばして、シーツのさらりとした感触を確かめる。仄かな温もりと花のような残り香は、先程まで確かに誰かがここで寝ていた証だった。 寝室からリビングに出ると、キッチンに立つ人影が見えた。魚の焼けるにおいが室内に漂う。 「カズミさん、おはよう」 窓から射し込む朝陽を浴びながら、アスカは俺に柔らかな微笑みを向けてくる。その浄らかな美しさに目を奪われ、つい見惚れてしまっていた。 「今朝は和食にしようと思って。焼き鮭に、卵焼き、お味噌汁、ほうれん草のおひたし。他に何か食べる?」 「じゅうぶんだ」 随分と家庭的だなと思う。 こうして陽の光に包まれながら料理を作る姿は、ごく健全な生活を送る学生のようだ。嫋やかに男を誘い、抱かれるアスカとはまるで別人に見える。 今の姿が本当のアスカなのだろう。そう強く思った。 「どうかした?」 子どものように澄んだ瞳で見つめられて、俺は視線を逸らす。 「いや」 俺はアスカに対してやり場のないわだかまりを抱いている。 恐らくそれは、わずかな金で俺の身勝手な計画に加担させているという罪悪感から来るものだ。 「カズミさん、今日も仕事にいくの」 ダイニングテーブルに肘を付きながら、料理に箸をつける俺をアスカが上目遣いに見る。 これから、昨日荷物を預けたコインロッカーの鍵を幸也に渡さなければならなかった。 「ああ、支度ができればすぐに出る」 短く答えれば、アスカはそっと目線を落とした。 「そう……」 睫毛が頬に落とす影が、小さく揺れる。愁いを帯びたその表情はあまりにも淋しげで、親に置いていかれる子どものようだ。 その顔を目にした途端、俺は頭で考えるより早く余計なことを口走っていた。 「一緒に来るか」 何を言っているのだろう。連れて行って一体どうする気だ。 自分の放った言葉を後悔したその瞬間、アスカは花が開くような美しい笑みをこぼした。 「本当にいいの?」 やっぱり駄目だとは、とても言えそうになかった。 「来たところで何もない」 「うん、いいよ。カズミさんと少しでも一緒にいられれば」 どういうつもりなのか、嬉しそうにそんなことを言う。溜息をついて、俺は目の前で微笑むアスカを見つめる。 「連れて行ってやるから、その代わりちゃんとメシを食え」 アスカは一瞬目を見開いて、こくりと頷いた。 俺は鮮やかな黄色と白がきれいに渦を巻く卵焼きを一切れ箸で摘み、きれいな桜色の唇まで運んでやる。 微笑みの形を残して口を開けるその顔は、どこかあどけなくも匂うような色気を伴う。 どうして俺は、余計な情を抱いてしまっているのだろう。流されて気まぐれに身体を重ねてしまったのが悪かったのかもしれない。 俺にとってアスカは、四日間だけ契約したビジネスパートナーだ。ただそれだけの相手で、それ以上でもそれ以下でもない。 今日は堅苦しいスーツを着る必要はなかった。普段着のまま白いバンの運転席に乗り込めば、続いて助手席のドアからアスカが入ってくる。 シートに腰掛けた途端、アスカは後ろを振り返って口を開いた。 「随分、積荷が多いんだね」 「商売道具だ」 端的にそれだけを答えると、もう追及してくることはなかった。アスカのそんなところが賢明だと感じる。 「人と会う約束をしている。それが済めば、今日の仕事は片が付く」 エンジンを掛けて車を走らせる。やけに静かだと思い隣に目をやれば、アスカはぼんやりと窓の外を眺めていた。 愁いを帯びた表情からは凛とした透明感が滲み出て、美しさに拍車を掛ける。 「──カズミさん」 俺の視線に気づいたのか、アスカがこちらに目を向けてきた。 「お姉さんって、どんな人だった?」 突拍子もなくそんなことを訊かれて、俺は少し狼狽してしまう。 「どんなって……別に」 「あのマンションには亡くなったお姉さんの遺影はないんだね」 指摘されてドキリとした。アスカがそういうところをよく見ていることが意外だった。 「あそこは姉が独りで住んでいたところなんだ。だから、遺影は置いてない」 「そうなんだ」 納得したようにそう言って、黙り込む。 物憂げなその様子に、俺は何となく想像がついてしまう。 アスカも、誰かを喪っているんじゃないかと。 「カズミさんはお姉さんと仲が良かったんだね」 ──彼女を自殺に追いやった男に対して復讐を遂げたいと、強く願うほどに。 微笑みを向けるアスカの美しい眼差しは、俺にそう語り掛けてくる。 空のことを考えれば、あまりにも想い出は多く、けれどそのどれもが掴みどころのない霞みのように朧げに揺れていた。 「馬鹿な女だったよ。男に騙されてばかりの、つまらない女だった」 こんなに明るい陽の下でするには、あまりにも相応しくない話だった。 口からこぼれるのは、空の価値を貶める言葉ばかりだ。 そうすることで俺は失った存在の大きさを少しでも紛らせようとしていた。そんな俺こそが、蔑まれるべき者に違いない。 「子どもの頃、俺は救急救命士になりたいと思っていた。そんなことを口にしたばかりに、姉は俺の夢を本気で実現させたいと願って、コツコツと金まで貯めていたんだ」

ともだちにシェアしよう!