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act.6 Platinum Kiss 〜 the 3rd day 2
「救急救命士、いいね。カズミさんにきっと向いてる」
アスカの言葉を俺は鼻で笑う。
「バカを言うなよ。所詮ガキの世迷い言だったんだ。夢は夢でしかない」
『じゃあ、一海の夢を叶えるのが、私の夢』
子どもの頃に聞いた空の声が耳に蘇る。
あれはいつだっただろう。まだ、空が工場で働いていたときのことだ。
『救急救命士の資格が取れる大学か、専門学校へ行けばいいじゃない』
空はあの美しい鈴の音のような声でそう言いながら、俺に美しい微笑みを向けた。
『そのために、私が頑張ってお金を貯めるから。一海はしっかり勉強してね』
けれど、夜の仕事を始めて俺と住んでいたアパートを出て行ってから、空はもう自分がそんなことを口にしたことさえ忘れてしまった。少なくとも、俺はそう思っていた。
空が亡くなった後に遺品を整理していたときのことだ。
空名義の貯金通帳を開くと、亡くなる前月まで月に一度、欠かすことなくかなりの額を送金している記録が残っていた。
送金先は、俺だった。それは空と一緒に暮らし始めた頃、将来の学費を貯蓄するためにと空に勧められて作った口座だった。
俺はここ何年もの間、そこから金を降ろすこともなく、残高照会さえしていなかった。
「カズミさんはそんなお姉さんのことが好きだったんだ」
アスカはそう言って、全てを見透かすかのような瞳で俺を見た。その眼差しに射抜かれた俺は、堪らず自分の罪を告白する。
「そうだ。血迷ってセックスして、後悔して会わなくなった。次に会ったときは、もう死んでいた」
吐き捨てるようにそう言い放てば、重苦しい沈黙が続く。
今まで誰に言うこともなく胸の奥に溜めこんでいたものを口走った俺を、アスカはただじっと見つめていた。死者を悼むような、静かな眼差しだった。
「カズミさん、片手で運転できる?」
唐突にそんなことを訊かれる。俺が頷くよりも先に、アスカの右手がステアリングに伸びてきた。その手が、俺の左手を取って下ろす。
指と指を絡ませながら、アスカは美しい顔をあどけない子どものように綻ばせて微笑みかけてきた。
運転しながら手を繋ぐなんて、まるで付き合ったばかりの仲睦まじい恋人同士のようだ。
握り返した掌は少しひんやりとしていて、心地いい。
穏やかで優しい沈黙に包まれたまま、俺は前を向いたまま車を走らせ続けた。
広い駐車場の一角に車をとめた俺は、エンジンキーを付けたままドアを開けてアスカを振り返る。
「車の中で待っててくれ」
アスカは俺を見つめながら、わずかに眉を上げた。
「カズミさん、ここが職場なの?」
遊技業を営む店の駐車場に車をとめたのだから、訝しげに言われるのも無理はなかった。
「いや、ここで人と会うだけだ。すぐに戻る」
頷くアスカを後に、俺は携帯電話を取り出して電話を架けた。
ワンコールで切って足早に店の自動ドアを通過した途端、この空間特有のけたたましい音楽やドラム音が耳を劈 く。
騒々しさに顔を顰めながら、奥へと歩みを進めていく。
俺はパチンコ店の澱んだ空気がどうにも苦手だった。これほど煩く閉鎖的な場所で、チカチカとせわしなく光るライトを眺めながら何時間もギャンブルに興じ続ける。そんな人間がこんなにも存在することに感心する。平日の昼間からこんなところに入り浸る奴らの神経が、俺にはわからない。
狭い通路を縫うように通り抜けて、店の奥のトイレまで辿り着く。
その入口には防犯カメラが設置されている。あえてそこに目線を遣らないように、中へと入っていった。
どうやら誰もいないようだ。洗面台の前で腕を組みながらしばらく待っていると、軽い足音が近づいてきた。
「一海」
遠慮がちな声と共に、幸也が姿を現した。
Tシャツとジーンズをラフに着こなすその姿は実年齢より幼く見えた。暇を持て余す大学生のようだ。
そんな幸也の存在感は自己主張することなくこの場所に上手く馴染んでいた。
「待たせたか」
「少しね。お陰で随分負けたよ」
そう言って自嘲気味に笑う。
「確変が一回掛かって、それきりだ」
静かな口調で似つかわしくない台詞を言う幸也の顔にはわずかに疲労が滲み出ている。約束よりずっと早い時間からここで俺が来るのを待っていたのかもしれない。そんな気がした。
ズボンのポケットから、小さく折り畳んだ茶封筒に入れたロッカーの鍵を取り出す。無言で差し出せば、幸也はそれを手早くポケットに押し込み、上目遣いでじっと俺を見つめた。
「一海……」
「お前の仕事を請けるのは、これが最後だ」
抑えた声でそう告げると、その瞳が小さく揺らぐ。ガキの頃と変わらない不安げな表情だった。
幸也、お前はまだこの世界に怯えてる。失うことにも、与えられることにも慣れることができないままに。
「一海、僕は」
揺れる瞳が、みるみる潤んでいく。
その続きを言わせないために、俺は細い腕を乱暴に掴んで引き寄せた。小さく開いた唇を、次に出るはずの言葉ごと塞いでしまう。
「……っ、ん、……」
舌を挿し込み絡ませると、抱き寄せた身体が小刻みに震える。
脳裏に思い浮かぶのは、細く華奢な裸体だ。この服の下に隠されている痛々しい烙印を、俺はさするように掌でゆっくりとなぞっていく。
幸也。俺はきっと死の直前に、お前のことを思い出すだろう。
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