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act.6 Platinum Kiss 〜 the 3rd day 3
唇を離すと、幸也は涙をこぼしながら苦しげに息をついた。
俺はそのまま元来た方へと踵を返す。
「一海……」
背中に絡みつく消え入りそうな声を振り払うように歩みを早める。
「幸也、悪かった」
そうは言ったものの、何に対して謝っているのかもわからない。
別れの言葉さえまともに言えない俺は、薄情な人間だ。
車に向かって歩みを進めれば、助手席に掛けたままぼんやりと遠くを眺めるアスカの顔が目に入った。
魂が抜けたような、虚ろな瞳をしている。心ここにあらずという表情は儚くも美しく、俺の心を無闇に揺さぶる。
ゆっくりと近づいて扉を開ければ、アスカは我に返ったかのようにこちらを振り向いた。
「早かったね。もういいの?」
「用は済んだ。どこかへ行こうか」
車に乗り込みながらそう切り出せば、途端に花の開くような笑顔を見せる。
「……うん」
こんな言葉ひとつで嬉しそうにするのが、堪らなくいじらしいと思った。
「行きたいところはあるか」
俺の言葉に、アスカはかぶりを振る。
「カズミさんの好きなところでいいよ」
「お前が行きたい場所に連れて行ってやるよ。あんな金額でこんなことを任せて、正直なところ気が引けてる。金は受け取ってくれないんだろう。お前のしたいことがあるなら付き合うよ」
俺は、アスカのことが知りたかった。もしかするとこの美しい男の中に潜む何かは、俺の抱える闇と酷似している気がするからだ。
少し考え込む素振りを見せて、アスカは口を開く。
「本当に、僕の行きたいところでいい?」
正面を向いたままそう訊いてくるその表情は、なぜかこれ以上ないほどに、辛そうだった。
そして俺は、その横顔になぜか二週間ほど前のあの一夜を想い出す。
シティホテルの一室で、俺はソファに掛けてぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。
窓の向こうに広がるのは夜の闇だ。宝石のように煌めく光の粒は、色とりどりに瞬きながら揺蕩う。その眩しさにゆっくりと目を細めていけば光は淡く滲みだし、やがて瞼の裏へと吸い込まれて消えていく。
俺は自分があの光の中に戻れないことを知っている。
想い出すのは、幼い頃に空と見たプラチナの夜の記憶。
もう二度と戻らないあの夜を、忘れたいと願いながら幾度も脳裏で反芻してしまう。
背後から、扉が開く音がした。
ゆっくりと歩み寄ってくるスーツ姿の男を、窓ガラスが鮮明に映し出す。限りなく黒に近いグレーの三つ釦ジャケットに身を包んでいるのは、俺が待ち続けていた男──幸也だった。
かつて家族のように共に過ごした男は、成人してもなお少年の面差しを残している。
『一海、待たせたね』
そう言って幸也が俺の隣に腰掛けると、ソファが軽く沈んだ。
『いや。無理を言って、悪かった』
『全部この中に入ってる。携帯電話と薬、それと……』
ローテーブルの上に、幸也が黒いアタッシュケースを乗せる。ガラスの天板にケースがあたり、鈍い音が鳴った。それが中身の重さを物語っていた。
鍵を開けて蓋を開けると、目当てのものが目に飛び込んでくる。
ヌメ革色をしたホルスター。その中には、小さな黒い金属の塊が収められていた。
『スミスアンドウェッソンの回転式拳銃だ。足の付かないものを持ってきたから、好きに使えばいい。弾は五発込めてる。余分はまだ調達できてない』
『五発あれば十分だ』
ケースごと引き寄せて、上からまじまじと眺める。
初めて目にする拳銃は、片手で収まるほど小振りのものだった。
『でも狙って撃つなら、ある程度練習しないと当たらない。どうする?』
『いい。必ず当たる距離で撃つ』
幸也は俺の顔を覗き込み、一瞬目を見開いてからゆっくりと眉根を寄せた。
『一海……』
『空の仇を討ちたい。絶対に失敗はしない』
脳裏に浮かぶのは、無惨に死んでいった美しい空の姿。
この腕の中で空の亡骸はしとどに濡れていた。重くぬめるようなあの冷たい感触を、まるで昨日のことのように思い出す。
『ホームにいた頃の空は、天使みたいに優しくてきれいだった。僕は何度も空に助けてもらったよ。空は僕にとって姉みたいな存在だった。だから一海の気持ちも少しはわかるつもりだ』
そう言いながらもその瞳が揺らぐのは、葛藤があるからだ。
『幸也。俺はこの手で裁きたいんだ』
真っ直ぐにその瞳を捕らえてそう告げれば、幸也は視線を逸らして俯く。
『一海は本当に、言い出したら聞かないね』
そう言って、少し笑う。その顔が思い掛けず淋しげで、胸が痛んだ。
幸也は淡々と機械的な口調で説明していく。
『至近距離だと38口径の弾は人体を貫通する。建物の中で撃つと、壁や床も通り抜けてしまうと思う。だから、相手がベッドに寝ているところを上から撃つんだ。マットレスもある程度はクッションになるけど、ベッドの下に折り畳んだテーブルや厚みのあって弾を留めることができそうな硬いものをできるだけ敷いてほしい。床を貫通してもいいような状況なら、敷く必要はない。例えば、建物の一階だったりすればね』
幸也が探るように俺を見る。相手がベッドに寝ているところを撃つ。果たしてあの男をそんな状況に持ち込めるのか。その瞳はそう問い掛けていた。
持ち込むさ、幸也。でもそれは、俺の役目じゃない。
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