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after Platinum Kiss side A 4

「明日、向こうに戻るんだ。しばらくは帰って来ないと思う」 まだ、夜は明けていない。 始発電車の動き出した駅の改札口を通り抜けたところで、陽太は僕と向き合って少し淋しげな表情を見せる。 「つらいときは連絡しろよ。そうは言っても、お前のことだからどうせ遠慮するんだろうけど。あと、身体は大事にな」 「陽太って僕の保護者みたいだね」 そうだ、保護者という言葉がぴったりだ。 そう言うと、呆れたように肩を竦めて陽太は苦笑する。 「今更何言ってんだよ。ずっと前からそのつもりだ。飛鳥ってホント鈍いな」 こんな僕を、以前と変わらずに受けとめてくれる。昔から僕は陽太と一緒にいると、どんなことでも何とかなるような気がして安心できた。 でも、僕たちはここで別れなければならない。 束の間の再会でさえ、離れることが心細くなっていた。 また会える日が来るかはわからない。それは陽太が遠く離れたところにいるからではなく、僕自身の問題だ。 「飛鳥は自分の感情に素直になっていいと思う。昔から他人のことを考え過ぎなんだよ。そうやって一人で勝手に潰れるタイプだからな」 深く溜息をついてから、陽太は強い光を宿した眼差しで僕を真っ直ぐに見据えた。 「今はまだ無理かもしれない。それでも、飛鳥が囚われていることに区切りを付けられるときはきっと来る。また心から笑って誰かを愛して、自分らしく生きてもいいって思えるようになるんだ。いつか自分を赦して、お前はちゃんと幸せになれる。ならなくちゃ駄目だ」 祈りのように紡がれる言葉を、僕はただ立ち竦んだまま聞いていた。 「飛鳥のことが心配だ。でも大丈夫だって信じてるから。次に会うとき、お前はもっと元気になってる。絶対だ」 そう言い切って、陽太は魔法を掛けるように手を伸ばして僕の頭を撫でてくれた。 その力は髪の毛がくしゃくしゃになるぐらい強くて、つい笑った拍子に堪えきれず熱いものが頬を伝い落ちた。 「おい、泣くなって。俺が泣かせてるみたいだろ」 「ありがとう、陽太」 涙を隠すために抱きつくと、お日さまのようにふわりと優しい匂いが鼻を掠めた。 昔のように慌てて振りほどかれる気がしたけど、陽太は僕を抱きとめたままポンポンと背中を叩いてくれる。子どもを宥めるようなその行為が嬉しくて、また新しい涙が溢れた。 「俺はずっと飛鳥の味方だから」 力強い言葉がキラキラと輝きながら渇いた心の中に沁み込んでいく。 「陽太、大好きだよ」 「俺も飛鳥のことが好きだよ。でもかわいい彼女がいるから、ごめんね」 冗談めかした言い方に笑いながら、僕は深呼吸をするように陽だまりの匂いを吸い込んだ。 白み始めた空に向かって、煌めく塔がそびえ立つ。そこに灯る明かりは美しく、淡く天上に溶け込んでいた。 誰もいないエントランスをくぐり抜け、エレベーターに乗り込む。最上階で降りた僕は重い足取りで奥の角部屋へと向かう。 ユウはもう眠っているだろうか。 叱られるかもしれない。それとも呆れられるだろうか。もう戻らなくてもかまわないと思われているかもしれない。 覚悟を決めてここまで来たけれど、それでもまだ僕は拒絶されることを怖れていた。 勝手なことばかりをして、ユウを散々振り回してきたという自覚はあった。こんな僕を受け容れてくれるユウの優しさに甘えてここまで生きてきた。 サキを失い、ユウに縋ることでどうにか保ってきた心のバランスは、ミツキと再会したことで少しずつ保てなくなっている。 ミツキにもう会わないと決意したのは僕なのに、二人で過ごした記憶を想い出す度にどうしようもなく心が掻き乱されてしまう。 闇雲にそれを紛らわせようとする僕をユウが持て余していることはわかっている。 僕の傍にはいつもユウが寄り添ってくれた。だから、今まで掴んでいた糸の先を見失うことになれば、僕はどうすればいいのかわからない。 そっと鍵を開けて、音を立てないようにゆっくりとドアノブを引く。感応式の照明が点灯して玄関を照らした途端、正面の奥でリビングの扉が開いて見慣れた人影が現れた。 「──ユウ」 まだ起きていたんだ。 ユウが険しい表情で早足に僕のところへと歩み寄ってくるから、思わず後ずさりをしてしまう。その顔がまともに見られなくて慌てて俯いた途端、力任せに左腕を掴まれて引き寄せられた。 驚いて顔を上げるよりも早く、僕は目の前に立ちはだかるその胸の中に抱きすくめられていた。息もできないほどに、強く。 「アスカ……」 絞り出すようなその声に胸が締めつけられる。 ああ。僕はここへ帰ってきてよかったんだ。 「ユウ、ごめんなさい」 やっとのことで声を出してそう言えば、ユウは両腕でしっかりと僕を抱いたまま髪に顔をうずめる。 優しい声で紡がれるのは、僕を迎えてくれるいつもの言葉。 「おかえり、アスカ」 耳に心地よく響く低音が唱える、僕をこの世界に繋ぎ止める魔法の呪文。 目の前に射し込むのは、僕を救うために放たれた細いひとすじの光に違いなかった。 だから僕はいつものように、その糸を手繰り寄せていく。 その身体に縋るように腕を回して抱き返した。 「ただいま」

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