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Stigmatic Kiss side A 1
──俺の傍にいてくれ、アスカ。
今、確かにユウはそう言った。
その言葉の持つ意味を、僕は必死に考えようとする。けれど、それと同時に行き着く答えをここで弾き出すことを心底恐れていた。
それはきっと、ユウと僕がこれまで培ってきた関係を根本から覆すものだからだ。
「ユウ、それは……」
僕を見つめる美しい瞳の中で、淡色の光が仄かに滲む。
戸惑いを素直にぶつけようとする僕の髪を優しく梳きながら、ユウは口を開いた。
「疲れているだろう。今は、ゆっくりおやすみ」
幼子に言い聞かせるような口調で紡がれるその声は、僕を深く穏やかな眠りの底へと誘う。
耳にした信じられない言葉にすっかり目が冴えたと思っていたのに、優しい体温に包まれながら、僕の意識は砂が地面へとこぼれるように急速に堕ちてしまっていた。
短い夢を見た。
キラキラと輝く朝の光を纏ったサキが、枕元に立っている。
幼い頃からずっと僕の傍にいる、大好きな幼馴染み。毎日会っているはずなのに、なぜだかとても懐かしい気がした。
サキはその場に屈み込み、僕の顔をそっと覗き込む。
ああ、なんてきれいなんだろう。
目映い光の欠片を閉じ込めた鳶色の瞳が僕を見つめればゆらりと煌めき、その美しさに涙が出そうになる。
形のいい唇がゆっくりと動いて、僕に何かを伝えようとする。なのにサキの声は、けっして僕には届かない。
唇の動きから、時折僕の名を呼んでいることはわかる。けれど、こんなに近くにいるのに何も聞こえず、ただ痛いぐらいの無音が両耳を鋭く突き刺すばかりだ。
ねえ、サキ。僕にはわからないんだ。
自分が何をしたいのかも。どうすればいいのかも。誰を必要としているのかも。
例えば、人を愛することが僕に赦されたとすれば、誰かを愛することができるのだろうか。
サキ、聞こえない言葉ならいらない。
その頬に、唇に触れて、確かめさせて。
手を伸ばしてそのぬくもりを感じたいのに、僕は指一本さえ動かすことができない。
柔らかな暖かさの中で目が覚める。
カーテンの隙間から射し込む陽射しの強さに、昼を過ぎてることがわかった。
僕の身体をすっぽりと包み込むように抱きしめてくれているその人を、恐る恐る見上げる。視線が間近で交じり合って甘く揺れた。
「……おはよう」
低く響く声が耳に心地よくて、自然に微笑みがこぼれる。
「おはよう、ユウ」
ユウはとうに起きていて、僕が目を覚ますまでこうして待っていてくれたに違いなかった。いつものように。
ずっと続いてきたこの日常は、そう遠くないうちに終わりを迎える。昨日までの僕はそう思っていた。けれど、今日は違う。それは本当に不思議な感覚だった。
夢から醒めているのか、まだ夢の中なのか。その境界さえも、僕の中では曖昧に滲んでいる。
ユウがベッドから起き上がり、僕もゆっくりと身体を起こす。胃の辺りの微かな違和感に、思わず手を伸ばして掌でそっと押さえた。
「アスカ。何が食べたい」
顔を上げればうっとりするような美しい微笑みが眩しくて、僕は目を細める。
そこにいるのは優しくて穏やかな表情をした、いつものユウだ。
「ユウの食べたいものがいい」
その言葉に頷いて寝室を出て行く後ろ姿を、僕はただじっと見つめていた。
シャワーを浴びてリビングに入れば、火を通した卵のいい匂いが漂ってくる。
ダイニングを見ると、ガラスの天板には大きなプレートとスープカップがふたつずつ並んでいた。上質の白い陶器は艶やかに光を放つ。
プレートの上に盛り付けられているのは、フランスパンにトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ。出来たてのスクランブルエッグからはふんわりと白い湯気が立っている。
スープは多分、カボチャのポタージュだ。こっくりとした黄色の表面に、生クリームがきれいな渦を巻く。
そんな光景に一気に食欲を掻き立てられて、僕は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
「おいしそうだね」
ユウは僕に近づきながら、微笑みを返してくれる。
「先に食べればいい」
すれ違いざまに掌でそっと僕の頭を撫でてから、リビングを出て行く。これからシャワーを浴びるのだろう。
ユウと交代するようにキッチンに立った僕は、ステンレス製のミルクパンに牛乳を注ぎ入れて弱火でじっくりと温めていく。遠くの牧場から取り寄せている無殺菌の牛乳は、さらりとした喉越しで後口がよく、ユウがこの頃好んで飲んでいるものだ。
ペーパードリップをセットして、濃いめに出来上がるようにコーヒーを淹れていく。しばらく豆を蒸らしてから少しずつお湯を注いでいけば、いい香りがほんのりと部屋に燻り始めた。
じわりと熱を含んだ牛乳を火から降ろし、淹れたてのコーヒーをサーバーからふたつのカフェオレボウルに注ぎ込む。そこへ温めた牛乳を入れたところで、ユウがバスルームから戻ってきた。
「まだ食べてなかったのか」
「うん。ユウと一緒がいいから」
トレイを持ってテーブルへと向かえば、二人の距離が近づいていく。
「まだ、濡れてるよ」
手の届く距離で湿り気を帯びた艶やかな髪に指を伸ばして触れれば、ユウはくすぐったそうに少しだけ顔を傾けた。
「いいんだ。そのうち乾く」
子どもみたいな言い方が何だかおかしくて、僕はつい微笑んでしまう。そして、同時に心がふわりと温かくなるのを感じる。
ユウは僕がこうして待っていることをわかっていて、いつもより短い時間でシャワーを済ませたに違いなかった。
向かい合ってダイニングに掛けた僕たちは、遅いブランチを始める。
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