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act.7 Angelic Kiss 〜 prologue 1

「俺、仕事辞めるんだ」 久しぶりに電話を架けてそう報告すれば、母さんは少しの間押し黙ったあと、理由を訊くこともなく『そう』と明るい声で言った。 『あなた、ずっと忙しくしてたものね。ちょっと立ち止まってゆっくりするのもいいんじゃない?』 この人らしい気遣いだと思った。強張っていた気持ちがようやくほんの少し解れた気がして、俺は安堵の吐息を漏らす。 「ああ、そうするよ。しばらくのんびりして、落ち着いたら次の仕事を探すから。また連絡する」 『やりたいことが、見つかればいいわね』 他にやりたいことなんて、別にないんだけどね。 心の中でそう呟いて、小さく溜息をつく。 子どもの頃から憧れていた職業だった。絶対になりたかったから、必死に努力した。夢が叶ってからも堅苦しいところでがむしゃらに自分のやりたいことを貫こうとして、ここまでやってきた。 でも、俺には無理だったんだ。 一身上の都合。そんなおざなりの理由を書いた紙切れ一枚を出せば、俺はこの仕事とスッパリ縁を切ることができる。 ずっと俺のことを応援してくれていたこの人は、口には出さなくてもきっと残念に思っているんだろう。血の繋がりはなくても我が子のように、いやそれ以上に愛情を注いで育ててくれたから。 しばらく他愛もない会話を交わしてから通話を終えた俺は、ソファに背中を預けて天井を見上げる。 これでいい。俺は間違ってなんかない。何度も自分にそう言い聞かせながら、窓の向こうの曇り空に視線を移す。 この空から光が射したところで、俺を取り巻く世界は何ひとつ変わらない。 「何の仕事してんの?」 行きずりの女との一夜限りのセックスの後にそう訊かれて、俺はまたかと心の中で呟いて小さく溜息をつく。 何の気なしに投げかけられるその質問が、俺には何よりも堪えるものだった。 「あててみて」 「あてたら何かくれるの?」 「いいよ。何でも買ってあげる」 「本当に? 言ったわね」 目を輝かせるその顔は、世間一般からすればきれいで魅力的な作りをしているんだと思う。俺にとっては、一晩愉しく過ごすのにちょうどいい、そんな相手。残念ながら、これからも会おうという気にはなれない。 「でも、チャンスは一度きりだよ。わかった?」 ベッドの中でふくよかな胸を押しつけて見上げてくるその唇を指でなぞりながら念を押せば、女は微笑みながら頷いてそっと唇を開く。 「そうね。目つきが鋭いから……」 よく言われることだった。無意識のうちに人を観察してしまう。それが目に表れてしまうのだろう。 「もしかしたらカタギの人じゃないのかも。でも刺青はないし」 ゆっくりと確かめるように背中をなぞられて、冷めた熱がほんの少し上昇していく。 「自由業っぽい感じがするわね」 自由業、ね。 曖昧な表現に苦笑しながら、俺は口を開く。 「正解はさ」 嘘をつく理由はない。けれど本当のことを話す義理もない。だから、どっちつかずの無難な答えを頭の中で弾き出す。 「コームイン」 三日も経てば忘れてしまう女の顔を覗き込みながら白状すれば、きょとんとした顔が目に入った。 そこまで真面目な人間には見えないんだろうか。 心の中で苦笑しながら、ふっくらとした唇に親指で触れればようやくそこから声がこぼれた。 「……ええ?」 「公務員だよ」 もう一度そう言い直す俺をまじまじと大きな目で見つめたまま、女はさもおかしそうに笑い出した。 「随分お堅い仕事してんのね。お役所勤めなんだ」 「そうだよ、もう辞めるんだけどね」 「ホントに? 安定してるのに、もったいない。でもまあ、パッと見た限りそんな感じじゃないし、向いてないのかもね」 向いてない。 初対面の女に言われるぐらい、向いてないんだよな。 「うん、そう。もともと柄じゃなかったんだよね。お上の言いなりで仕事をするのはいい加減飽きたし、何か別のことでもしようと思って」 赤の他人にそんなことを言うものの、俺はこれから自分が何をしたいのかも全然わかっちゃいない。仕事のことを考えまいと逃げてばかりの生活を送ることに、いい加減うんざりしている。 だらだらと自堕落に酒を呑んで、女を引っ掛けて。愉しいんだかそうじゃないんだかも、正直よくわからない。 飽きたことをルーティンワークとしてこなすことに嫌気がさしてるのに、それでも俺はこんな毎日を繰り返してる。 嫌いな食べ物を鼻を摘みながら呑み込むように、もう二度と会うことのない女と性欲を満たすだけの無意味なセックスに興じる。虚しさが募るだけの情事を、課せられたノルマみたいに淡々とやり過ごしていく。 胸の悪くなるような香水の匂いに包まれながら柔らかな身体を弄っていくうちに、俺は不意にあの匂いを思い出す。 何年経っても忘れることのできないそれは、甘く芳しい、熟れた果実にも似た花のような香りだ。 ちゃんと自覚はある。いい年をしてこうして女ばかり漁ってるのは、もうずっと前に好きだったあの人の匂いを探してるからだ。 忘れられない初恋相手との甘く苦い想い出は、今も俺の意識の深いところを占めているんだろう。 俺はそっと目を閉じて、遠い昔の記憶を幾度も反芻しながら、生温かな胎内に半身をうずめていく。

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