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act.7 Angelic Kiss 〜 prologue 2

携帯電話のディスプレイを確認すれば、午前一時を指そうとしていた。 行きつけの店でしこたま飲んでどうにか終電に滑り込み、降りた最寄り駅から自宅マンションまで歩き出すと、突然空からぽつぽつと水滴が落ちてきた。冷たい雨が細い糸を垂らすように降り注ぎ、身体をみるみる濡らしていく。 マンションまであと十分は歩かないといけない。次第に強くなる雨足に、俺は通り道にあるコンビニに寄ることにした。 真夜中のコンビニは、なぜか妙に頼もしく思える。人気のないところでこの強い光が目に入ると、それだけで心細さが随分和らぐから不思議だ。 足早に駆け込んだ軒先の向こうに、人影が見えた。出入口から離れたところに立つその人は、遠目にも突然の雨を凌いでいるように見えた。 店に入り、安いビニール傘を買ってから自動ドアを通り抜けて、再び家路へと足を向けようとしたそのときだった。 「あの」 澄んだ少年の声が、背後から聞こえた。辺りには他に人がいないから、俺を呼び止めているのだろう。 声の主は、さっきから雨宿りをしている人物に違いなかった。次第に近づいてくる足音を不審に思いながら、ゆっくりと後ろを振り返る。 「傘に入れてほしいんだ」 いや、唐突過ぎるだろ。 喉元までせり上がっていたその言葉を俺は呑み込む。 目の前に立っているのは、大学生ぐらいの年若い男だった。手には小振りのボストンバッグ。部活動の荷物が入っている、というわけではないのだろう。この辺りに住んでいる者ではない。そう思うのは、どことなくこの場所に慣れていない感じがするからだ。まるで小旅行でもしているかのような、そんな雰囲気を醸し出している。 けれど俺が驚いた理由は、そんなことではなかった。その顔が、俺の恋い焦がれた人と同じだったからだ。 本当によく似ている。いや、もはやそっくりと言っても差し支えないだろう。 人形のように整った顔立ちは、性別を超えた美しさを湛えている。長い睫毛の影を映す澄んだ瞳に、物憂げな光がゆらりと浮かぶ。淋しさを抱える者だけが持つ眼差しだ。 言葉を失くした俺を前に、きれいな形をした桜色の唇がゆっくりと動いた。 「僕、今お金がなくて」 そう言って、その人は小さく笑った。ふわりと花開くような微笑みに、俺は魅了される。 ──堕ちた。 自分の中で抱いていた何かがグラグラと揺さぶられて、崩れ堕ちる音がした。 理性だとか常識だとか、相応の大人として持ち合わせていたものが全部取り払われて、剥き出しになった俺はもうこの美しい人に囚われてしまっていた。 「帰るところもない」 ゆっくりと言い聞かせるように言葉を続けるその表情からは、艶かしい色気が匂い立ち漂う。その雰囲気に完膚なきまでに打ちのめされて、俺は呆然と目の前の美しい幻を見つめる。 「あなたのところに……連れて帰って」 細い腕が伸びてきて、買ったばかりの傘の柄を持つ俺の手に触れた。 冷たい掌の感触に背筋がゾクゾクと震える。その瞬間、雨特有の濃く湿めった匂いに混じり、花のような香りが鼻を掠めた。 緩やかに漂うその匂いは、懐かしい記憶を急速に呼び覚ます。 ああ、俺がずっと探していた匂いだ。 「朋ちゃん……?」 そんなはずはない。年も性別も違う。 思わず名前を口にしてしまった俺を見つめるきれいな顔に、微かに戸惑いが浮かんだ。それでも穢れのない瞳は光を揺らめかせて、たじろぐ俺の姿を映していた。 「年は、幾つ」 やっとのことでそう口にすれば、桜色の唇は微笑みの形のまま動く。 「……二十歳」 落ち着いた佇まいをしているけれど、外見から推定される年齢はせいぜいそんなものだろう。 彼女は俺より五つ年上で、今三十九歳のはずだ。彼女の息子という可能性も、考えられない。なぜなら俺は彼女が二十歳の頃を知っていて、当時彼女に子どもがいただなんてありえないからだ。 じゃあ、今俺の目の前にいるのは誰だ。 このタイミングで面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。そんな気持ちとは裏腹に。 「うちでいいなら、おいで」 あろうことか俺はこの美しい人を家に連れて帰ろうとしていた。 心臓の音がうるさく鳴り響く。 この顔、この匂い。これは、神様が巡り合わせてくれた奇跡だ。 「ありがとう」 こちらに向けられる安堵の滲み出た笑顔は思いがけずあどけなくて、まるで子どものようだ。 寒さのせいで色の抜けた頬にそっと触れると、その掌へと軽く首を傾げて、縋るように俺を見つめてくる。その仕草がもう、かわいくて堪らない。そう思うのが酔いのせいじゃないことを、俺はちゃんと自覚している。 鼻腔に届く懐かしいこの匂いを、俺はただひたすらに欲していた。 ここで手離したら、絶対に後悔する。 「名前は、何て言うんだ」 艶めく桜色の唇がゆっくりと動いて、美しく香しいこの人の名を紡いでいく。 「──ハルカ」

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