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act.7 Angelic Kiss 〜 the 1st day 9
親父と彼女が二人揃って固唾を呑み、俺の顔を穴が空くほど見つめている。
一体何事だろう。これから何か途轍もなく恐ろしいことを言われるんじゃないかと、俺は思わず身構える。
彼女はそんな俺に真剣な眼差しを向けながら、そっと口を開いた。
『私、拓磨くんのお父さんのことが大好きなの。拓磨くんのことも大好きだし、とっても大切よ。だから、拓磨くんの気持ちを大事にしたいと思う』
俺は二人の顔を交互に見る。そこには嘘もごまかしもない。言われていることの意味も、これから言われるであろう言葉も、俺にはもうわかっていた。
『あなたのお父さんと、結婚してもいい?』
緊張を孕むその問いかけが、俺の人生を左右する重大なものであることは、幼いながらに想像がついた。
大人たちが強張った面持ちで俺の出す答えをじっと待っている。それが何だか無性におかしくて、俺はつい笑ってしまっていた。
『うん、いいよ』
その言葉に二人は顔を見合わせて、みるみる頬を緩ませる。本当に嬉しそうだった。
今ならわかる。五歳の子どもが駄目だと言えば、この二人は少なくとも籍を入れることはなかったんだろう。
『……じゃあ』
俺は大好きな彼女の顔を見ながら、自分の望みを伝える。
『お父さんと結婚したら、ぼくのお母さんになってくれる?』
その言葉を口にした瞬間、俺を映す目が揺らめいてみるみる涙が溢れ出した。
その美しく輝く笑顔を、俺は今でもよく憶えている。
『もちろんよ。拓磨くん、ありがとう。ありがとう』
差し伸ばされた両腕が俺を抱きすくめる。その胸の中はあたたかくて、耳元で繰り返し礼を言われるうちに、俺は陽だまりに包まれているようなぽかぽかとした気持ちになっていた。
こうして、拭うことなく涙を流しながらしっかりと抱きしめてくれるその人が、俺のもう一人の母親になった。
それから程なくして、彼女は長身の若い男を連れてきた。
高校生だというその人は、なんと彼女の連れ子だったんだ。
初めて会った俺の兄となる人は、男だというのにびっくりするぐらいきれいな顔をしていた。
男っぽくて、けれどどこか中性的な感じもする、不思議な雰囲気のある人だ。
俺にとって身近な年上の男といえばいつも面倒を見てくれる無骨な顔立ちのじいちゃんか、そのじいちゃんによく似た風貌の親父ぐらいで、こんなに整った顔立ちの男を見たのは初めてだった。
大人になった今でさえ、あれほどまでに美形な高校生を見かけることはないと思うぐらいだ。
俺は、当時よくテレビドラマに出ていた俳優の名を引き合いに出して話しかけた。
あの人より、お兄ちゃんの方がずっとカッコいいね。
多分、そんなことを口にしたと思う。
その途端、きれいな顔が和らいで、一気に親しみやすい雰囲気になったんだ。
同じ目線になる位置まで屈んでくれたその人は、微笑みながら俺に真っ直ぐ手を差し伸ばす。
『拓磨くん、よろしく』
ああ、この人も俺をちゃんと対等に扱ってくれる人なんだ。
握り返した大きな掌は温かくて、ずっと兄弟が欲しいと思っていた俺は、この出会いにワクワクして堪らなかった。
それが俺の義理の兄となる、那谷誠 だった。
ゆっくりと、眠りから覚醒していく。
眩しさに目を細めながら重い瞼を開ければ、カーテンから射し込む光の具合で朝の遅い時間だとわかった。
そうだ、俺は昨日酒を呑んで終電に滑り込んで、それから──。
「……ハルカ」
その後に起こった奇跡を思い出して、ガバリと飛び起きる。
降りしきる雨の中、俺が拾って帰ってきたかわいいハルカの姿は腕の中から忽然と消えていた。
全部、俺の見た夢だったんだろうか。
けれどベッドから仄かに漂う甘い残り香は、あの出逢いが幻ではなかった何よりの証拠だった。
「ハルカ?」
声に出して部屋の扉を開けると、ふんわりとしたいい匂いが鼻腔を刺激する。卵の焼ける匂いだ。
急いでリビングに入れば、キッチンに立つハルカの姿が見えた。
「タクマさん、おはよう」
窓から降り注ぐ朝陽を浴びながら、ハルカは俺に美しい微笑みを向ける。
「ごめんなさい、勝手に色々使わせてもらってる」
「よかった。もう帰ったのかと思ったよ」
安堵の溜息をつきながらそう言うと、ハルカはわずかに眉を上げる。
「言ったよね。帰るところはないって」
ほんの少し、拗ねたような口調だった。俺の言葉を不満に思っているのかもしれない。
──かわいいな。
ちょっとした表情にさえ、頬が緩んでしまう。ハルカはコンロの火を消して、ネコのようにしなやかな足取りで俺の元へと歩み寄ってくる。
みるみる距離を詰めてきて、触れ合うまであと少しのところで軽く背伸びをして抱きついてきた。
花のような麗しい匂いが、ふわりと空を舞う。
華奢な身体の柔らかなぬくもりを確かめるように抱きしめながら、ああ朝の挨拶をまだ返してないな、なんて間抜けなことに気づいた。
「おはよう、ハルカ」
至近距離で、焦れるように視線が交じり合う。
心の中まで覗き込んでくる魅惑の眼差しに囚われながら、桜色の唇にそっと口づけた。少し開いたその隙間を割って、舌を滑り込ませる。
郷愁を誘う甘い香りに、朝っぱらから世界が揺れたかのような目眩を覚えた。
「──ん、ふ……っ、ン……」
流れ込む唾液も吐息も全部絡め取って軽く吸い上げれば、鼻に抜けていくかわいい声が耳をくすぐる。
「ハルカ、駄目だよ。朝からそんな声を出したら」
唇を離してそうたしなめれば、ハルカは息をついて頬を染めながら恍惚とした視線を注いできた。
「ん……、だって……」
首筋には、俺が昨夜つけた幾つもの紅い印がうっすらと残っている。
新しい熱を灯すように、同じところに口づけて軽く吸い上げた。
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