192 / 337
act.7 Angelic Kiss 〜 the 1st day 14
葬儀場から出た俺は、被害者遺族の家に戻らなかった。その足でまっすぐこの家へ帰って来て、それきりだ。
俺は全てを投げ捨てて、逃げ出したんだ。
自分がどこに立ってるのかが、わからなくなった。
悪ガキを捕まえて取調べて、鑑別所や少年院に放り込んで、そこから出てきて悪さをしたところをまた捕まえる。
今まで俺が流れ作業みたいにやってきたことは、正義でも何でもなかったんじゃないかって。
今まで、誰のために何をやってきたんだろう。
いろんなことが、怖くなったんだ。
俺ね、向いてないんだよ。警察に向いてない。
守るべきものが何で、正しいことが何なのか。俺にはもうわからないんだ。
ハルカは時折相槌を挟みながら、俺の話を身じろぎもせず聞いていた。
誰にも話すことのできなかったことを残らず吐き出せば、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
重なり合う身体は同じ温度になっている。覆い被さるハルカの体温が緩やかに融け出して俺の中に染み込んできた。
抱き合うことがこんなにも心地いいなんて、知らなかった。
「弱くなんてないよ、タクマさん」
ハルカは俺の肩先にぺたりと頬をつけたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「あなたは人の痛みがわかる、すごく優しい人なんだと思う」
それが口先だけの慰めではないことは、なんとなく感じ取ることができた。
俺はハルカの頭を撫でながら、そっとかぶりを振る。
「そんなことないよ」
そう否定しながらも、こうして包み隠さず吐き出したドロリとしたものを受け入れてもらったことで、長い間胸の中で渦を巻いていた自分の気持ちが少しずつ浄化されていくような気がした。
「タクマさん……」
おもむろに肩から顔を離して、ハルカが俺を見つめる。穢れを知らないかのように澄んだ瞳は、潤みを帯びながらキラキラと美しく煌めいていた。
「大好きだよ」
何の躊躇いもなく投げかけられたその言葉に、俺は救われる。
「俺も、ハルカのことが大好き」
そう告げながら、両脇の下に手を添えて力を込める。華奢な身体を引き寄せて桜色の唇を啄ばむと、柔らかな感触が気持ちいい。
ハルカはくすぐったそうに吐息を漏らしながら、舌先をわずかに挿し出して俺の唇をくすぐる。それに吸いつくように、舌を伸ばして絡め取った。
セックスをしているわけでもないのに、それ以上にピッタリと合わさってひとつに融け合うような不思議な感覚に、素直に意識を委ねていく。
つらいことも煩わしいことも、今ここには何もないんだ。
こうしてずっと、二人だけの世界で生きていきたい。そんな子どもじみたことを言えば、ハルカは笑うだろうか。
永遠が訪れることを祈りながら、俺はハルカと抱き合ったまま何度も戯れのキスを繰り返した。
俺が親父と二人で住んでいた家に、新しく家族になった母と兄がやって来た。
継母とか義理の兄という呼び方をすれば、世間的には響きのいいものではないだろう。けれど、俺たちは血の繋がりなどまるで関係なく、家族としてうまくやっていた。少なくとも、幼い俺の目にはそう見えた。
母は優しくて温かい、陽だまりのような人だった。けれど、俺が一歩誤れば自分や他人を傷つけかねないようなことをしたときは、それは厳しく叱られたものだ。
そして彼女は、俺だけでなく生みの母のことも大切に考えてくれた。彼女は亡くなった母の月命日に、必ず幼い俺を連れて墓参りをした。それも、恐らくは義理でしているわけではなかったようだった。
「あなたを産んでくれたお母さんに、ありがとうございますっていつもお礼を言ってるの」
俺にはそんなふうに説明していたが、今思えば、それは彼女なりの大切な儀式だったのかもしれない。月に一度、彼女は俺の実母と、俺には聞こえない会話を交わしていたんだと思う。
そうすることで、血の繋がらない俺の育て方について、一歩一歩立ち止まっては確認していたのかもしれない。
「あとは、拓磨が平仮名をこの間よりも上手く書けるようになりましたとか、こんな生意気なことを言うようになって困ってますとか。ちょっとしたご報告をしてるのよ」
それを聞いた俺は、子どもながらに悪いことをしてはいけないなと思ったものだ。俺を産んでくれた母親をガッカリさせてしまうのは、とても不本意なことだったから。
そんな日々の中で、俺は亡くなった母に宛てた手紙を何度か書いたことがある。
水糊でしっかりと封をしたその手紙を、彼女はけっして開けようとはしなかった。しばらく家の仏壇に供えてから、月命日の墓参りに二人で持って行くんだ。
墓前に供えたその手紙は、次の月命日のときに持ち帰る。雨風に晒されてボロボロになってはいるけれど、不思議と一ヶ月経ってもいつもちゃんと残っていた。
そして、庭の隅でそれを落ち葉と一緒に一斗缶の中に入れて、そっと燃やすんだ。
母と二人でしゃがみ込み、揺れる焔をじっと見つめるその時間が俺は好きだった。
立ち昇る煙と共に、この手紙が天国にいる母に届けばいい。そんなことを願っていた。
俺の兄となった那谷誠は、姓をこちら側に変えて三崎誠となった。そして、十二歳も年が離れている俺のことを、弟というよりむしろ我が子のようにかわいがってくれた。
普通は高校生というと、友達と遊びたい年頃だ。でも、兄は受験勉強の合間にしょっちゅう近所の公園で遊び相手をしてくれた。時には遊園地や動物園にも連れて行ってくれた。夏には公営プールに行って一緒に泳ぐ練習もした。
義理の兄のことを、兄ちゃんと俺は呼んでいた。兄ちゃんはとにかくカッコ良くて優しくて、一緒に暮らし始めてすぐに俺の自慢の兄になった。大好きな兄ちゃんに、俺はもうベッタリと懐いていた。
ともだちにシェアしよう!