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act.7 Angelic Kiss 〜 the 2nd day 4
朝食を終えてから、俺たち三人は何をするでもなくダラダラと家の中で過ごしていた。
職を失った男と、何らかの事情で家出してきた若者二人に、することなんてあるはずもない。それでもいつもは一人で過ごすこの家にハルカとミチルがいるだけで、時間の流れがいつもよりも早く感じられる。
「拓磨さん、仕事は?」
朝の情報番組をぼんやりと眺めながら、ミチルが小さな声で訊いてくる。
いい歳をした大人が平日に家にいることを不思議に思うのかもしれない。平日が休みの仕事だってたくさんあるんだぞ。まあ、俺は違うけどな。
「今してる仕事をもう辞めるんだ。だから、行ってない」
嘘をついても仕方がない。正直にそう言えば、ミチルはそれ以上追及してくることもなく「そうなんだ」と頷いた。
「……じゃあ、ハルカは何をしてる人なの?」
今度はもっと遠慮がちに口にする。ミチルだけではなく、俺もハルカが何をしているのかを知らなかった。
俺の方は素性を包み隠さずベラベラと喋ってしまっているにもかかわらず、ハルカは自分のことをほとんど話さない。どことなくその辺りに触れて欲しくないという雰囲気がハルカからは醸し出されていて、だから迂闊には訊けずにいる。
人には知られたくない事情のひとつやふたつはあるもので、それを追及するほど俺は子どもではなく、何よりそんなつまらない好奇心を剥き出しにすることでハルカに疎ましがられたくなかった。
俺がハルカについて知っていることと言えば、下の名前と年齢ぐらいだ。あとは、何か理由があって家に帰れないということ。
その事情は恐らく、ハルカの身体にこれ見よがしに所有印を付けた奴に深く関係があるんだろう。それを考えると気に喰わないが、そいつのお陰で俺はハルカと出逢えたわけだから何とも複雑だ。
ハルカはソファの背もたれに身体を預けて微笑みながら、ミチルの問い掛けに意外にもあっさりと答えた。
「僕はね、契約してもらったところに行って、期間限定で働く仕事をしてるんだ」
意外だった。ハルカからはどことなく社会人のような印象は感じられなくて、てっきり学生か何かだろうと思っていたからだ。けれど、実は派遣会社に登録しているというわけか。
それなのに今はこうしてぶらぶらしているということは、もしかするとちょうど契約が切れている期間なのかもしれない。
ミチルもちょっと興味深そうな顔をして、身を乗り出す。
「そうなんだ。どんな内容の仕事なの?」
「行くところによって、することは違うんだけど。僕にできることなら何でもするよ」
そうだよな。景気がいいとはけっして言えないこのご時世、派遣社員の立場で仕事を選んでいてはどうにもならない。ハルカも苦労してるんだ。
まあ、公務員だって特段給料がいいわけじゃないしな。俺のようにに中途で辞めてしまったら、退職金だってきっと雀の涙だろう。貯金を食い潰してばかりもいられないから、そろそろ次の仕事を真剣に探さなければいけない。
「給料は、幾らぐらい?」
ミチルがやけに突っ込んで訊いている。どうしてそんなに喰いつくのか、考えられる理由はひとつしかないが、他でもないかわいいハルカのことには俺も興味があった。
「給料?」
ハルカが少し眉を上げて、不思議そうな顔をする。年相応のかわいらしさは、けれどもすぐに色っぽい微笑みへとすり替わっていく。
「四日間で五万円。日給に換算したら、一万二千五百円かな」
おい、なかなかいい額じゃないか。俺もそこで雇ってもらえないか。そう思った瞬間、ミチルが顔を輝かせて「そこ、僕も働ける?」と口にする。考えることは同じだった。
「募集はしてないんだ。ごめんね」
ハルカは残念そうに肩を落とすミチルを少し困ったように見つめ、手を差し伸ばした。泣いている子を宥めるように、ミチルの頭を優しく撫でてやる。
「ミチルはそういうことをしなくてもいいんだよ。必要ないんだから」
慈愛に満ちた瞳で項垂れる子を覗き込みながら、そう声をかける。それでもミチルは納得していないらしかった。
「だって僕、働きたいんだ。生きていくにはお金が必要でしょう?」
お前みたいな家出少年を雇ってくれるまともなところなんてないって、昨日も言ったよな。そう言いたいのを堪えて、俺はずっと抱いていた疑問を言葉にする。
「お前、学校はどうしてるんだ」
「学校には、行ってない……」
俺の問いかけに小さな声で答えて、みるみる表情を曇らせていく。
「クラスの人たちと、合わなくて」
不登校か。ということは、学校に籍はあるんだな。
ミチルの周りには、信頼できる人はいないんだろうか。
まだ幼さを残した輪郭を見ながら俺は考える。やっぱりミチルの年齢はせいぜい十五、六歳というところだ。ほんのわずかな時間しか一緒に過ごしていないが、ミチルの素行に悪いところは見当たらないし、どこをどう捉えても今まで散々悪さをしてきたような不良少年だとは思えない。
大人しくて素直で、どちらかというと間違いなくいい子の部類に入る、ごく普通の少年だ。家出に慣れているようにも見えない。恐らく、こんなことをするのはこれが初めてなんだろう。
家に帰れない事情があって、学校にも居場所がない。拠り所のないこの子の行き着く先は、児童相談所しか考えられない。早々に連絡を入れて、引き渡すしかないんだ。
そんなことを考えているうちに、胸の奥がちくりと痛む。
まずいなと思う。俺はもうミチルにかなりの情が湧いてしまっている。
「外に出ない?」
昼食を終えて片付けが済んだところで、ハルカがそんなことを言い出した。
「家の中に篭ってるのもよくないしね。少しぐらい遠出をしても大丈夫だ。ミチル、行きたいところがあるなら遠慮せずに言えばいいよ」
ハルカの言葉にミチルはしばらく押し黙る。考え込むように一点を見つめて、やがて小さくかぶりを振った。
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