206 / 337

act.7 Angelic Kiss 〜 the 2nd day 8

親父と再婚したときは式を挙げていないから、きっと初婚の式を思い出しているに違いなくて、そんな話をする母の表情は確かに一際若々しくてきれいだった。 二人の結婚にあたって、俺にはもうひとつ腑に落ちないことがあった。兄は結婚して、今の姓から彼女の姓になるという。つまり、三崎誠から羽山誠になる。 婿養子になるという話ではなかった。この国で多くの女性がそうするように、兄は結婚して婚家の姓になるというんだ。 元々那谷の姓だったのが、親の再婚で三崎になり、入籍して羽山になる。兄は二十二歳にして人生で三つ目の姓を名乗ることになった。 けれど、兄の選択を特に反対する者は誰もいなかった。向こうのきょうだいは妹だけだったから、その選択は歓迎されたみたいだ。 当時の俺には兄がどうして三崎の姓を変えたかったのかがよくわからなかった。でも、今は何となくこうだったんじゃないかと思うことがある。 兄は、自分の手で一から全く新しい家庭を築こうとしていた。だから、今まで属していた二つの姓から自らを切り離したんだ。 俺がそう考えるのには、理由がある。 『拓磨。俺が家を出たら、母さんのことをよろしくな』 結婚直前、俺にそう言った兄の笑顔が、すごくきれいで本当に淋しそうだったからだ。 二人の結婚を前に、畏まった料亭の個室を貸し切って両家の顔合わせが行われた。 羽山家は両親と妹の四人家族で、この日は全員が来ることになっていた。 当日、うちの家族は早く着いてしまって、着慣れない上等な一張羅を着させられた十歳の俺は、居心地の悪さを感じながらも向こうの家族が来るのを手持ち無沙汰に待っていた。 そして、約束していた時間より少し前に、羽山家が揃ってやってくる。 『翠ちゃん、きれいだね』 深紅の振袖を着て現れた兄嫁は本当に艶やかで、いつにも増してきれいだった。その姿に見惚れながら、俺の大好きな兄がこんなに素敵な人と結婚することが本当に誇らしく思えた。 そのすぐ後に入ってきたのは、優しそうな顔立ちをした父親だ。けっして強面ではないのに人目を引く重厚な存在感に圧倒される。その隣には、少し年の離れた姉にしか見えないような、兄嫁によく似た可憐な顔立ちの母親。──そして。 一番後ろから控えめな足取りで歩んでくる、光沢のあるベージュ色のワンピースに身を包んだ少女に、俺の目は釘付けになる。 姉とはまた異なった美しい顔立ちだった。長い睫毛の下から覗く凛と澄んだ眼差し。天使のカーブを描く頬。艶を帯びた桜色の唇。 その瞬間、俺はその日の本来の目的も、兄たちの大事な席であることも、何もかもを忘れてしまっていた。 心臓が大きな音を立てて鳴り響いて、身体中が沸騰したように熱くなっていく。 呆然と穴が開くほど彼女を見つめる俺は、さぞ間抜けな顔をしていただろう。 羽山朋未(ハヤマ トモミ)。 それが兄嫁の妹で、俺の初恋相手の名前だった。 顔合わせの日を境に、兄嫁は時折妹を連れて我が家に遊びに来るようになった。俺はその度に友達と遊ぶ約束を断り、胸を弾ませながら家でしっかりと待機していた。 羽山朋未は当時十五歳だ。俺にとっては大人の女性と同然で、全く手の届かない存在だった。それでも俺は、憧れの人と少しでも一緒にいたくて必死だった。 彼女が来るとわかっている日は、朝から居ても立っても居られなくて一日中そわそわしていた。来たら来たで、もっと落ち着かなかった。彼女に近づきたいという下心があるにもかかわらず、そんなことは全く考えてもいないという顔で無邪気にベッタリと懐いているふりをした。本当にませた小学生だったと思う。 俺は精一杯の勇気を出して、彼女のことを"朋ちゃん"と呼ぶようになった。 彼女たちが姉妹で家に遊びに来ると、俺は自然に朋ちゃんと話をする機会を持つことができた。 向こうはまもなく高校へ進学するという年齢だ。俺みたいな小学生と話が合うはずもないのに、それでも彼女と過ごす時間は俺にとって最高に楽しいひと時だった。 『私、弟か妹がいればいいなあと思ってたの。だから、拓磨くんと仲良くなれて嬉しいな。私よりも年下の子ってすごくかわいく思えて、大好き』 あのきれいな眼差しでそんなことを口にされた日には、俺はまるで自分のことを好きだと言われたような気になって完全に舞い上がってしまった。 全く馬鹿だったなと、今更ながらに思うよ。 朋ちゃんはきれいな顔立ちをしているせいか年よりも大人っぽく見えるのに、話しているといたずらっ子のようなかわいらしい表情を見せることもあって、一緒にいると目が離せなくなり言葉を失って見惚れてしまうこともしょっちゅうだった。 時折見せる屈託のない笑顔はいつも眩しいぐらいにキラキラと輝いていて、透明感に溢れている。本当に素敵な女の子だった。 春に降り注ぐ暖かな陽射しのような、穏やかで優しい年上の人。恋愛対象としてはまるで相手にされないことをわかっていながら、俺は会う度に彼女のことをどんどん好きになっていった。 こんなことを言うとおかしな奴だと思われそうだけど、俺は彼女から漂ってくる独特のいい匂いが本当に大好きだった。 傍にいるといつも鼻腔をふわりと刺激する芳しい匂い。熟れた果実のようでもあり、咲き誇る花のようでもある。けれど、そのどれとも違う、そんな不思議な香りだった。 一日中包まれていたいぐらいに魅惑的な芳香は、膨らんだ恋心を一層あやしく掻き立てていく。 当時の俺は彼女のつけている香水が欲しいと本気で思っていた。その香水があれば、いつでも彼女と一緒にいるような気分になれそうだったから。 『朋ちゃん、何ていう香水をつけてるの』 ある日思い切ってそう訊けば、朋ちゃんは小さくかぶりを振りながら、申し訳なさそうにきれいな微笑みを浮かべて俺を見つめた。

ともだちにシェアしよう!