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act.7 Angelic Kiss 〜 the 2nd day 7
ゲームセンターの出口を抜けながら、ミチルはポツリとそんなことを呟く。憂いを帯びたその顔は、やはりどことなくハルカに似ている。
ふと、俺は気づいてしまう。二人に共通するのは、虚無感を映し出すような眼差しだ。
ひょっとしてハルカとミチルから奪われているのは、未来を想像する力なのかもしれない。
そんなことを考えていると、ミチルがおもむろに語り始める。
「僕の家、子どもの頃から引越しが多くて、しょっちゅう転校してたんだ。新しい学校に行く度にどうせすぐに引っ越すんだろうなって思ってたし、人と話すのが苦手で、どの学校でもうまくクラスに馴染めなかった。学校が終わってから友達と遊んだりすることもなかったし、だから」
たどたどしくそう言葉を紡いでから一旦区切って、小さな声でぽつりと漏らす。
「こんな楽しい思い出が、できてよかった」
ミチルが自分の言葉で自分のことについて話すのを、俺は胸の痛みを覚えながら聞いていた。
まるで、このシールに写っているのがお前の最後の笑顔みたいじゃないか。
「おい、その年で人生が終わったみたいな言い方をするなよ」
会って間もないオッサンの説教なんて下らないと、この子は思うだろうか。それでも俺は、言わずにはいられなかった。
「お前の人生は今まで生きてきた時間よりこれから先の方が長いんだ。この先、お前はいろんな人と出会う。生きていればつらいこともあるよ。でも、いいことだっていっぱいあるんだ。心配するな。お前にはこれから、幾らでもいい思い出ができるから」
届くかどうかもわからない思いをつらつらと口にしながら、俺は思う。
この言葉、そのままそっくり自分自身に言い聞かせてるみたいだな。
全く説得力がない。いろんなことを諦めているのは、俺だって同じだ。
ミチルは思いつめた表情を浮かべながら俺の横をどこかおぼつかない足取りで歩く。
横に並ぶハルカがミチルの顔を覗き込むように見つめて口を開いた。
「僕たちはもう、ミチルの友達だよ」
そう言って微笑むハルカを、ミチルは縋るような瞳で見つめ返す。艶やかな桜色の唇からこぼれるのは、キラキラと繊細に輝く魔法の言葉。
「タクマさんも僕も、ミチルの友達で味方だ。だから大丈夫」
言い聞かせるようにそう口にして、ハルカは澄んだ眼差しを煌めかせる。
「ハルカ……」
ミチルは告げられた台詞を噛み締めるように名を呼んで、ゆっくりと俯く。確かに今のミチルに必要なのは、信頼できる誰かに違いなかった。
「今日の晩ごはん、何がいい?」
ハルカはミチルの薄い肩に手を置いて、ポンポンと宥めるように叩く。ミチルはもうそれに怯えたりはしなかった。
「すき焼きにでもするか。ハルカもミチルも細過ぎるんだよ。ちゃんと肉を食え。奮発していい肉買ってやるから」
「拓磨さん、仕事してないのにお金大丈夫なの……」
痛いところを突かれて、つい苦笑する。
「子どもは余計な心配するなって」
その幼さを残す顔がほんの少し緩んだことに胸を撫で下ろす。
前へと伸びた影を目で追いかけながら近くのスーパーへと向かい、どうしたものかと思案する。
俺はもう、どうにかこの手でミチルを助けてやりたいという気になってしまっていた。
義理の兄が大学四年生で、俺が小学四年生のときのことだ。
年が明けて、正月の夜をのんびり家族みんなで過ごしていると、兄が話したいことがあるとおもむろに皆の前で切り出した。
『翠と結婚したいんだ』
改まった様子で突然そう口にした兄を、皆一斉に目をまんまるにしてただじっと見つめていた。
兄はまだ大学生で、結婚を焦る理由は何もないはずだった。
『……結婚? どうして?』
兄はそういう冗談を言うタイプの人じゃなくて、勿論それは真剣な宣言だった。
『子どもができたとか、そういうわけじゃない。ただ、翠とのことは早くきちんとしておきたいんだ』
そんなことを言う兄に、両親は当然びっくりしていたけど、それでもすごく喜んでいるようだった。二人共、羽山翠という完璧な彼女のことを気に入っていたし、このまま交際を続けて結婚するかもしれないと思っていたんだろう。だからその場でも、早い結婚に対する彼女や向こうの両親を気遣う言葉は出たけれど、結婚自体には全く反対しなかったし、早過ぎるとも言わなかった。
兄はその春に大学卒業を控えていて、大手の広告代理店から内定をもらっていた。俺から見ても、その未来は順風満帆に思えた。
『翠とはいずれ結婚するんだ。だったら早い方がいいと思ってる』
落ち着いた口調でそう言う兄に、迷いは見えなかった。
聞けば。彼女の家族も賛成しているらしくて、二人が籍を入れることには何の問題もなさそうだった。
けれど、俺はそんな兄の言動にどことなく違和感のようなものを覚えていた。
その正体が何なのかは、全くわからなかった。けれど、なぜだか兄は焦っている気がしたんだ。
何かに駆り立てられ、追い詰められたその先で彼女と結婚しようとしてる。
でもきっと、家族でそんなことを思っているのは俺だけだった。俺は兄のことが大好きだから、兄が離れていくのが淋しくてそんなくだらない想像をしてしまっているだけだ。奇妙な感覚をそう解釈して、納得しようとしていた。
兄と彼女は大学を卒業後すぐに籍を入れることになり、六月には挙式が決まっていた。
結婚式はしないと言っていた二人を説得したのは母だった。
『一生に一度のことなんだから、式は挙げた方がいいわ。私、翠ちゃんの花嫁姿が見たいもの』
母は俺にもわかるぐらい兄たちの結婚を心底喜んでいて、自分の息子以上に彼女に肩入れしているように見えた。
『結婚式は、女の人にとって特に大切なものよ。幾つになってもその時のことを思い出すとキラキラしてて、懐かしい気持ちになるの。そんな素敵な人生のイベントを経験しないなんて、もったいないと思う。お金のことは気にしなくて大丈夫。知り合いの人が勤めている式場があるから、一度どんなものなのか見に行くだけでも、ね?』
そう言って極上の笑顔を見せながら、母は二人をうまく言いくるめてしまった。
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