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act.7 Angelic Kiss 〜 the 2nd day 10
一度拒絶されてしまうと、信頼関係を築くことはずっと難しくなる。けれど、ミチルが自分のことを素直に話せるようになるまで待つ時間は残されていない。未成年のこの子を長くここに置いておくわけにはいかないからだ。
全てを知ったミチルの親が訴えれば、俺は誘拐犯人にだってなりかねない。
俺は仕事を辞めるんだから、今更どうなったっていい。けれど、そんな騒ぎになったときに被害者に仕立て上げられたミチルがどれだけ大変な目に遭い、どれだけ心を痛めるかは想像に難くない。
思い詰めたミチルの顔をそっと窺っていたハルカは、おもむろに突拍子もないことを切り出した。
「ねえ、ゲームをしようか」
澄んだふたつの瞳は、子どもが楽しい遊びを思いついたかのようにキラキラと輝く。
「ゲーム?」
急な提案に俺とミチルは同じタイミングでオウム返しに訊き返した。
「そうだよ、ゲームだ」
俺たちの顔を交互に見て楽しそうに微笑みながら、ハルカは言葉を紡いでいく。
「三人で、一人ずつ順番に自分のことを話していく。そうだね、三周しようか。だから三回話す機会がある」
唐突な展開についていけず、俺とミチルはぽかんとハルカを見つめていた。
「ルールはひとつだけ。その三回の中に、本当のことを話す回と嘘を混ぜる回の両方があること。三回とも本当のことばかりを言ったり、逆に嘘ばかりを言ったりしてはいけない。三回話すから、嘘が混じる回と本当のことしか言わない回は、どちらかが一回でどちらかが二回になる」
本当のことと、嘘のこと。
今しがた説明を受けたルールを噛み締めながら、俺は考える。
ハルカがミチルに自分の話をさせようとしてこんなことを仕向けているのは明白だ。本当と嘘の両方を混ぜてもいいと告げることで、ミチルが話しやすい状況を作ってやってるんだろう。
これから自分の話すことが真実かどうか、俺たちには区別が付かないとミチルが安心できるように。
「わかった? 難しくないでしょ」
にこやかに微笑みながらそう言って、ハルカはソファの上に手を伸ばす。その指先が触れるのは、無造作に置かれているフリルの付いたハート型のクッションだった。余計なものを置かないこの部屋にまるで似つかわしくない、かわいらしい小物だ。
故意に注意を引くようなハルカの行為を目にした俺は、その意図に気づく。
それは、前に付き合っていた女がうちに持ってきて、別れたときにそのまま置いていったものだった。
──ほら、よくあるだろう。違和感のある余計なものが、毎日見ているうちにいつの間にか空気みたいに周りの景色に溶け込むこと。ちゃんと視界には入っているはずなのに、まるで見えてないみたいに気にも留まらなくなるんだ。これもまさしく、それだよ。
無言で責められている気がして心の中で必死に弁明する俺を上目遣いに見つめながら、ハルカはピンク色のクッションを胸に抱いてそっと笑いかけてきた。
ああ、うん。そういうかわいいクッションとの組み合わせもいいね。大丈夫、ハルカがダントツだ。
誰と比べるまでもなく、俺の目の前にいるこの子はやっぱり世界一かわいいと思う。こんな時だというのについ頬を緩ませる俺に向けて、ハルカは突然賽を投げた。
「じゃあ、タクマさんから」
おい、こういうのは言い出しっぺから始めるんじゃないのか。
ポンと宙に放り出されたクッションを掴んだ俺は、ハルカのゲームに乗ってやるためにそれを膝に乗せて座り直す。
ミチルがきちんと自分のことを話せるように、流れを持って行かなければならない。それがわからないほど俺は鈍感ではないけれど、実際にできるかどうかはまた別の話だ。
三人でローテーブルを囲んで座り込み、様子を窺うように顔を見合わせる。
「はい、どうぞ」
ハルカの愛らしい笑顔には、心なしか含みがあるようにも見える。
……クッションのこと、別に気を悪くしてるわけじゃないよな?
心の中で確認してみるものの、ハルカが本当のところどう思っているのかもわからない。
自分のことを三回話す。その中に、嘘と本当を混ぜる。適当な嘘を考える時間はないから、とりあえず一回目は本当のことを話そう。
俺は心の中でルールを反芻しながら、口を開いた。
「俺の名前は三崎拓磨で、歳は三十四になったところ。仕事はもう辞めるから、今は無職で何もしてない。そろそろ就職活動でもしようかと思ってる」
その程度で終わろうとしていたのに、ハルカはまだ続けろという具合に眼差しで訴えてくる。もう話すことなんかないんだけどな。
改まって自分のことを話すというのは、存外難しい。俺は仕方なく、どうでもいいことを口走る。
「このクッションは、昔ちょっと付き合ってた女が置いて行ったもので、捨てるのを忘れてただけ。未練は全くないから。何なら、すぐに捨てるよ」
言い訳めいた言葉に、ハルカがおかしそうに笑った。ミチルがきょとんとした顔で何度も瞬きをする。
「何、ハルカ」
「ううん。タクマさんて、やっぱりかわいいところがあるなと思って。別に捨てなくてもいいよ」
十四も年下の子に軽くあしらわれてしまう自分が情けない。俺は罰の悪さをごまかすように「ほら」とそのクッションをハルカに回した。
「じゃあ、次は僕だね」
そう言って、ハルカはすらすらと言葉を続けていく。
「僕の名前はハルカで、年は二十歳だ。契約した期間だけ仕事をしてるんだけど、今はちょうど契約が途切れてるところ。タクマさんとは、昨日の夜中に偶然この近くのコンビニで出会ったんだ。それからここに置いてもらってる」
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