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act.7 Angelic Kiss 〜 the 2nd day 11

「えっ、そうなの?」 口を挟むミチルに、ハルカはただ謎めいた微笑みを返すだけだ。 そうか、本当のことかどうかも言ってはいけないんだ。それもまたハルカの決めたルールなんだろう。 けれど、今耳にしたことは俺も知っているハルカ自身のことに違いない。だから、ハルカは本当の話を一回話したことになる。 「次はミチルの番」 ハート形のクッションが今度はミチルのところに回される。それを恐る恐る膝の上に置いて、ミチルは重い口をそっと開いた。 「僕の名前はミチルで、歳は……十八」 そんな初歩の段階で、一旦止まってしまう。この子は本当にごまかすことが下手だ。出会ったときに十八歳だと言ったのは自分なんだから、きちんと貫けばいいのに。 俺はハラハラしながら親のような気持ちでミチルを見守っていた。 「僕、学校にはずっと行ってなくて、でも、家にいる方が好きだったから、別に学校に行きたいっていうわけじゃなくて……」 語尾が消えて、表情がみるみる翳っていく。頼むから、嘘をつくならもう少しうまくついてくれよ。こんな正直者で、この子はこの先ちゃんと生きていけるんだろうか。全く放っておけない。 そこまで話してから完全に言葉に詰まったミチルは、俺の目の前にクッションを差し出してきた。たったそれだけしか話さないのかと思ったものの、ここで無理強いをして心を閉ざされるのは具合が悪い。 ミチルの一回目は、嘘の話。 これで一巡したから、次は俺の番だ。ここで出さなければいけない話題がどんなものなのかは、もうわかっている。 自分の家族についての話だ。 「俺が一歳のとき、実の母親が病気で亡くなった。亡くなったときのことを憶えていないせいか、不思議と産みの母親がいないことを悲観したことはないんだ。でも、そんな小さな頃のことを憶えてるはずがないのに、どうしてだか母親に抱きしめてもらったときの光景や匂いは記憶にあるんだよ。勘違いかもしれないし、後付けのイメージを自分の記憶と履き違えているのかもしれない。それでも、俺にとってはすごく大切な思い出だ」 じっと俺を見つめる二人の眼差しを感じながら、訥々と続けていく。 「母親が亡くなってからしばらくの間、親父は祖父母の力を借りながら俺を一生懸命育ててくれた。俺が五歳のときに、親父が再婚して義理の母親と兄ができた。幸いなことに二人はすごくいい人たちだった。血の繋がりはなかったけれど、そんなことは関係ないぐらい家族の仲はよかった。俺は一番年少だったし、家族みんなからかわいがられて育ってきた。血の繋がらない兄貴は十二歳上で、カッコよくて頭もよくて、何でも知ってたしすごく優しかった。兄貴は子どもの頃から俺の憧れだった。もう辞めようとしてる今の仕事に就きたいと思ったのも、兄貴に連れて行ってもらったヒーローショーを観たことがきっかけだ。兄貴は俺のヒーローだった。俺は兄貴に少しでも近づきたかったんだ。俺の初恋の相手は、兄貴の奥さんの妹。ハルカによく似た、とてもきれいでかわいらしい人だった」 二回目に口にしたのは本当の話で、懐かしい家族と大好きだった朋ちゃんの想い出だ。もう二度と戻ることのない、俺の人生で最もきれいな記憶を思い浮かべながら、ハルカにクッションを回す。 ほんのりと愁いを帯びた顔でしばらく唇を結んでいたハルカは、やがて溜息のように言葉を紡いでいった。 「僕には物心ついた頃から父がいなかった。父と母は離婚していて、父が家を出て行った理由がどうやら女性関係らしいということは大きくなるうちに何となく察することができた。母は父の写真を残らず捨ててしまっていたし、家では父の話をすることは赦されなかった。僕は、父がどんな顔をしているのかも、どんな人なのかも知らない。生きているかどうかさえもわからない。でも、それを悲しいと思ったことはなかった。父がいないことは僕にとっては当たり前だったし、父がいなくても十分過ぎるほど周りの人に恵まれてた。だから、今更父のことを知りたいとも思わない」 そう言って、そっと息を吐きながら強張っていた表情を緩めてミチルにクッションを差し出した。 それはハルカ自身の話か? 心の中で問いかけてみるけれど、俺には答えがわからない。ハルカはもう、いつもの優しい微笑みを浮かべている。 もしかするとこれも、本当の話。 ずっと俯いて聞いていたミチルは、唇をきつく噛み締めたまま何かを考え込んでいるようだった。 俺とハルカは家族の話をした。ミチルはこの流れで何を語るんだろう。色の薄い唇が震えながら開くのを、俺は固唾を呑んで見守る。 「……僕、一人っ子で」 意識していなければ聞き逃してしまいそうな程に小さな声で、ミチルはとうとう自分のことを話し始めた。 「お父さんとお母さんは、僕が小学校に入る前に離婚した。もともとお母さんが家にいることは少なかった。だから、お母さんとの思い出はほとんどないし、今どこにいるのかも知らない。あばずれでインランな女は、お前を捨てて逃げた──僕は、お父さんにずっとそう言われてきた。お父さんは、よくそういう乱暴な言い方をする」 刺すように吐き出される言葉はひどく機械的で乾いていた。ゆっくりと、けれど澱みなく紡がれるこの話は真実に違いなかった。 「お母さんがいなくなる前から、家にいろんな女の人が出入りしてたことを憶えてる。でも、その人たちが何をしに来てたのかは知らないし、探ることもいけないと思ってた。お父さんはよく家を空けたけど、ちゃんと僕にごはんを買うお金を渡してくれたし、何日かすると必ず家に帰ってきてくれた。僕はお母さんに捨てられたから、お父さんには捨てられないようにしないといけなかった。お父さんはこんな僕を育ててくれるたった一人の家族だから、大事に思わないといけない。なのに僕は、お父さんのことをどうしても怖いと思ってしまう。自分のお父さんを好きになれない僕は、ダメな子どもなんだ」

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