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act.7 Angelic Kiss 〜 the 2nd day 12

口の中が砂を含んだようにザラザラしている。 こうして聞く限り、ミチルの父親は素行の悪い人間なんだろう。育ててくれてるとミチルは言うが、小さな子どもに金だけを渡して何日も家を空けるのはネグレクトに他ならないし、それを育児とは言えない。 ミチルは時折言葉に詰まりながら、その先の言葉を続けていく。 「小さな頃から引っ越しが多くて、僕はどの学校に行ってもうまく馴染むことができなかった。いじめられることも多かった。今の高校にも、入学してからほとんど行ってない。家を出てどこか遠くに行きたいと思ったこともあった。でも頼れる人がいないし、僕にはどこへも行く場所がなかった。それに、お父さんを裏切るのはいけないことだ。だから僕は」 悲痛な声が、細かく震えていた。 「ずっと家にいるしかなかった」 消え入りそうな語尾に何とか言葉を繋げたミチルは、視線を下げたままクッションを俺に差し出す。 ミチルは本当の話が一回と、嘘の話が一回。 こういう境遇に置かれている子どもは決して珍しくはない。もっと悪いケースを挙げればキリがない。仕事柄、家庭環境が複雑な子どもはたくさん見てきた。だから、俺にはわかる。 ミチルに刻まれた傷は、まだ隠されている。 恐らく、ミチルの抱えるものは今言ったことだけじゃない。続きがあるんだ。 今聞いた断片的な話だけでも、ミチルの父親が酷い人間だというのはわかる。けれど、ミチルが父親を怖いと思う本当の理由は、まだ出ていない。 口から盛大な溜息がこぼれていく。ああ、結局俺はこの子を放っておけないんだ。刑事としても、俺自身としても。 ミチルのことを何とかしてやりたい。でも俺がそう思っているだけじゃ無理なんだ。 俺は一旦腰を上げて座り直し、ミチルに正対する。 「俺はずっと続けてきた仕事で、子どもを助けることができればいいと思ってた。色々あって、もうその仕事を辞めるつもりでいる。だけどミチルが困ってるなら何とかしてやりたいし、今の俺にも何かできることはある。そう思ってる」 三回目の本当の話。結局、俺は嘘を言う機会を逃した。でもこれでいい。 ミチルは真っ直ぐに俺を見つめる。穢れを知らない美しく澄んだ瞳は、ハルカの持つそれにとてもよく似ていた。 「俺は、お前の味方になる。これは本当だ。お前は味方になってくれる大人を知らない。だから、どうやって手を伸ばせばいいかもわからないんだ。いいか。お前はその手を差し出しさえすればいい。心配するな。俺がしっかり掴んでやるから」 この言葉がきちんと胸に届くことを願いながら、俺はミチルを見つめ返す。 ミチルは返事をしなかった。けれど視線は逸らさない。険しい表情のまま縋るような瞳で俺の顔を見つめていた。そうやって、ひたすら何かを考え込んでいるようだった。 ここで傷を曝け出してもいいかどうかを、自分自身に問うているのかもしれない。 そこで俺のターンは終わりだ。祈るように、俺はハルカにクッションを渡す。 ハルカは美しい微笑みを浮かべながら、凛とした眼差しでミチルを見た。そこには、ごまかしも偽りもない。 「僕もミチルの味方だ。何があっても、それは変わらない」 落ち着いた声で力の篭った言葉を告げて、手にしているクッションをミチルに差し出した。 細い指が、ギュッとピンクの布に食い込んでいく。少しの沈黙の後、ミチルは視線を落として口を開いた。 「……最初は、何が起きてるのかわからなかったんだ」 唇を噛み締めて一呼吸置いてから、ミチルは小さな声で細く息を吐くように、静かに語り始めた。 「小学五年生の夏休みで、すごく蒸し暑い夜だった。僕、エアコンが一時間で切れるようにタイマーを掛けて寝てたんだ。でも、エアコンが切れてしばらく経ってからだと思う。暑くて目が覚めて、もう一度エアコンを点けたんだけど、身体がびっしょり汗で濡れてるのが気持ち悪いから着替えようかどうか迷ってた。なかなか寝つけなくて、タオルケットに包まりながら何度も寝返りを打ってた。そうしたら、突然部屋にお父さんが入ってきた。早く寝ろって叱られるのがいやで、僕は寝たふりをした」 嫌な予感がじりじりと意識の底から這い上がってくる。俯くミチルの視界には入らないかもしれないけれど、俺は相槌代わりにしっかりと頷く。ちゃんと話を聞いていることを示したかったからだ。 「お父さんは、僕の寝ているところまで近づいてきた。ベッドの横に跪いて、僕の顔を覗き込んでくる気配がした。それでも、僕はじっと目を閉じていた。起きていることをお父さんに知られてはいけない気がしたんだ。それから、お父さんは被っていたタオルケットをめくって、僕のパジャマのボタンをひとつずつ外していった。僕が汗をかいてるから、着替えさせてくれるんだ。そう思ってたら、唇に何かが触れた。薄目を開けたら、それはお父さんの唇だった。それでも僕はまだ、これから自分が何をされるのかをわかってなかった」 ミチルは抑揚のない声で、淡々と話し続ける。まるで、他人のことを喋っているようだ。 こういう喋り方をする子どもを、俺は何人も見たことがある。犯罪の被害や虐待などで、ひどくつらい目に遭った子たちだ。 取り乱さないからと言って、平気なわけじゃない。自らの身に起きたことを他人事のように語ることで、自分の心を守っているんだ。 「お父さんは、僕の服を脱がして、身体をたくさん撫で回した。本当に、どうしてかわからなかったんだ。でも僕は、お父さんに……」

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