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act.7 Angelic Kiss 〜 the 2nd day 13

細い身体を小さく震わせながら、胸の内に籠っているものを一欠片も残らず吐き出すかのように、ミチルは深く息をついた。 「お父さんにされてることが痛くて怖くて、僕は寝た振りを続けることができなくなった。力ではお父さんには絶対に敵わない。どうしてもいやだったから、泣きながら何度もやめてってお願いした。でも、お父さんはやめてくれなかった。僕にとってはすごく長い時間だった。やっと全部が終わった後、お父さんは僕の身体のあちこちを吸って、たくさん痕を付けた」 ミチルは顔を上げて恐る恐るハルカを見つめる。その視線は、首筋に残る小さな所有印を捕らえていた。 ああ。この子にとってそれは、父親から科せられたおぞましい枷だったんだ。 「その日からお父さんは、週に二、三度は僕の部屋に来て同じことをするようになった。初めは嫌で堪らなかったけど、だんだん慣れてきて何とも思わなくなった。お父さんは普段怖い人だけど、そういうことをした後はすごく優しい。僕の欲しいものを買ってくれたり、外食に連れて行ってくれるようになった。今まで家に来ていたいろんな女の人たちは、いつの間にか来なくなった。だから僕は、もうそれでいいと思ってた。それまでお父さんは僕を抱きしめてくれたことがなかったし、僕のことを邪魔だと言ってたんだ。でも、お父さんは僕にそういうことをしてるときは、僕が必要なんだって言ってくれた」 耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなほどに小さな声で、次から次へと言葉をこぼしていく。まるで罪を告白しているかのように。 この子は今までどれだけのものを一人で抱え込んできたのだろう。 「だけど、お父さんのすることはどんどんひどくなってきた。僕とそういうことをしてるときに、スマホで写真や動画を撮るようになった。撮られるのは嫌だったけど、誰にも見せないからって言われた。撮ってると興奮するんだって、お父さんは笑ってた。傍を離れることを許してもらえなくて、トイレに行かせてもらえないこともあった。どうしても我慢できなくてベッドを汚してしまったら、お父さんは嬉しそうに僕に言った。『お前は、悪い子だね』って」 悪い子だって? 一体この子のどこが悪いんだ。俺は自分の内側から湧き起こる怒りとも悲しみともつかない激情を抑え込むのに必死だった。 「そうだ。僕は、悪い子どもなんだ。こんなことがおかしいってちゃんとわかってたし、わかってるつもりだった。わかってるのにお父さんの言いなりになってるなんて、僕はどうしようもない悪い子なんだ。お父さんのすることがエスカレートしてきて、この何ヶ月かの間、今日は何をされるんだろうと毎日がすごく怖かった。何とかしなくちゃいけないと思った。このままだと、お父さんにもっともっといやなことをされる。僕はお父さんから逃げられるなんて思ってない。でもせめて、ほんの何日かだけでも離れてみたかった。だから、見つからないように毎日少しずつ荷物をまとめて、お父さんが仕事に行ってる間に家を抜け出した」 ハルカがそっと手を伸ばす。その掌が硬く握りしめる拳の上に重ねられると、ミチルは詰めていた息をゆっくりと吐いていった。 「でも、逃げ出したって、こんな悪いことをしてきた僕は、ちゃんとした大人にはなれない。これから先のことが、想像できないんだ。お父さんがいつも僕に言ってたとおり、僕は碌な人間にはならない。お父さんと一緒にいると、いろんなことがすごく怖かった。でも、一番怖いと思うのは、お父さんのことじゃない。僕は、僕自身が怖い」 ハルカがミチルの傍へとにじり寄っていく。何も言わずに背後から両腕を回して小柄な身体を抱きしめると、涙を湛えていたミチルの両目から光の筋が伝い落ちた。 ヒクヒクと薄い肩を震わせながら、ミチルは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。 「全部、僕が……僕が、悪いんだ……」 しゃくりあげるミチルの耳元で、ハルカは優しい声で囁きかける。 「ミチルは悪くなんかないよ。よく一人で頑張ったね。本当にえらい」 その言葉を聞いた途端、ミチルは堰を切ったように声をあげて泣き出した。ハルカは幼い子どもを宥めるように、小柄な身体を抱きしめながら優しい手つきで何度も頭を撫でてやる。 俺はその光景を呆然と眺めながら、縺れたこの糸をどう解せばいいのかを必死に考えていた。 「タクマさん」 ベッドの中で身を寄せ合っていると、小さな声でハルカが俺を呼ぶ。 そっと抱き直して髪を梳いていけば、ハルカは気持ちよさそうに目を閉じて息を吐く。全身から匂い立つ甘い香りが堪らない。 振り返れば今日も一日が長かったなと改めて実感する。ハルカと出会ってから、俺の時間は劇的に密度を増している。仕事から身を引いてからまるで空虚だった日常が、音を立てて回転を速めているのがわかる。 濃密な現実の隙間を縫うように過去がフラッシュバックするのは、ハルカの存在が俺の記憶を呼び覚ましているからだろう。 ゆっくりと瞼を上げたハルカは、おもむろに桜色の唇を開く。 「ミチルを、救ってあげたい」 縋るような眼差しに、俺の胸はチクリと痛む。俺だってそうだ。あんな事情を知ってしまえば何とかしてやりたいと思わない方がおかしい。 「俺もそう思ってるよ」 素直な気持ちを口にして、腕の中の身体をギュッと抱きしめる。 「だけど、俺たちにできるのはミチルをきちんとしたところへ引き渡すことぐらいだ」 苦々しい気持ちを抱えたまま、俺はハルカにそう告げる。俺たちがこの先ずっとミチルと関わって生きていくことはできない。だから、適切な誰かにこの子を託すしかない。

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