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終
自分の旦那から一番遠い席に座る俺と、一番近くに座る可愛い詩央。
妻である俺には向けたことのない笑顔を浮かべて話す彼を、もう見ていられなかった。
「俺、部屋に戻るわ」
夕食にほとんど手をつけずに席を立つ。目の前の光景を見て、食べ物なんて喉を通るはずがなかった。
席を立ち歩いて行く俺の横顔に強い視線が突き刺さるが、結局最後まで声をかけられることはなかった。
「ねえ、さっさと離婚したら?」
自分の部屋のドアを開けようとしたところで、後ろから無遠慮な声を投げつけたのは詩央だった。
俺の後を急いで追いかけてきたのか、肩で息をしている。
「……なに、」
「今日一日ふたりを見てたけど、とても夫婦には見えなかったよ」
詩央は俺を見下す目をしていた。そんな顔をしていたって可愛いんだから、本当に世の中は不公平だ。
「結婚した意味、全くないんじゃない? もう離婚した方がいいと思うな」
意味がない? 夫婦に見えない? ……そんなの俺が一番分かってるんだよ。
分かっていても離れられずにいた。どこかにまだ期待できる何かを探していた。
希望の見えない地獄のようなこの半年間を、それでも藁にもすがる思いで過ごしてきたのは……。
「悪いけど、それは俺が決めることじゃない」
「知ってる。だから俺、明日澄人さんに頼もうと思ってるんだ。昌樹と離婚して、俺をお嫁さんにしてって」
────は?
「今なら分かる。澄人さんは、きっと俺の気持ちを試してたんだね」
「なに、それ」
「だぁって。昌樹と澄人さん、セックスどころかキスすらまだなんでしょ? 愛し合ってる夫婦が、半年経って何もないって普通あり得ないでしょ」
「……なんで知ってんだ」
「そりゃあ本人に聞いたからだよ」
あの人は、こいつにそんなことまで話したのか。目を見開いて固まる俺に、あははと春風のように爽やかに笑う。
「ごめんね昌樹、巻き込んじゃって。俺、男だけど心は乙女だからさ、相手からグイグイ来て欲しかったんだ。でもそのせいですれ違っちゃったみたい」
だから、明日。わざわざ、俺の二十歳の誕生日に。
「俺から、澄人さんにプロポーズするよ」
満面の笑みを浮かべた詩央の顔は、やはり天使に愛されるほどに美しいものだった。
自室の床に蹲る。胃の中で重たい石がゴロゴロと暴れ回っているような感覚に、まともに立っていられなくなった。
ゲホッ、ゴホっ、う"っ……
急に喉の奥から何かが迫り上がってきて、慌てて口元を手で押さえる。しかし抑えきれなかったものがの隙間からぼたぼたと零れ落ちた。
「なんだよ……これ……」
手のひらを越えて床を汚したのは真っ赤な液体。だがそれは、血ではなかった。
ツンと鼻の奥まで届くほどに強い花の芳香が辺りに漂う。
「は……はは……はははッ!」
口元を赤く染め、ドロドロに溶けた花であったであろう液体を見つめて笑う。あの人の、綺麗な花となった想いとは大違いだ。俺の気持ちは形になるとこんなに醜い。
足元の真っ赤な水溜りの中、なり損ないの花の欠片が静かに浮かんで揺れていた。
明日になるのを待つことができず、俺は小さなスポーツバッグに僅かな荷物を詰め込んだ。
半年の間、夫どころか使用人たちからもずっと邪魔者扱いを受けてきたのだ。俺が出て行こうと止める者などいないだろう。
そうして飛び出すように部屋を出たところで、思わぬ相手に捕まった。
「こんな時間にどこにへ行くんだ。……その荷物はなんだ?」
大きな手が俺の二の腕をしっかりと掴んでいる。
「ここを出て行きます。もっと早くにこうするべきだった」
西洋の人形の様に整った男の顔が、珍しく大きく表情を変えた。
「出て行く、とは?」
「ここには二度と戻りません。離婚届は後から送ります。もう行きますから手を離してください」
「君は何を言っているんだ!? 離婚届だなんて……明日は君の誕生日で、そのために岩崎くんや南條くんも駆けつけて」
「ふざけんな! 俺をダシにして詩央に会おうとしただけだろ!?」
掴まれた腕を自身の方へと力一杯引き寄せる。しかしそれでも、阿須間の手は離れなかった。
「離せっ、離せよこのっ!!」
「離さないっ、行かせない! なぜ離婚だなんて言う!?」
その言葉に心の糸がぷつりと切れた。
「じゃあ逆に聞かせてくれ。なぜ俺と離婚しない? そもそも、なんで俺と結婚した?」
最初から不思議だった。俺の家との繋がりなんて、この人には必要ないはずだ。家だけじゃない、もちろん俺個人にも興味はないし、その上この人には花を吐き出すほどに恋しい相手がいる。
「この半年間、目も合わないし会話もない。夫婦なのに寝室も別々だし、キスどころか手を繋いだこともない」
セックスなんて問題外だと阿須間を睨めば、何故か彼の顔が血色ばんだ。
「オマケに貴方には、病を患うほどに愛しい相手がいるんでしょ?」
「それは、」
「俺はこれ以上ここで飼い殺しになるのはゴメンだ」
「なっ、飼い殺しだなんてそんな」
阿須間が何か言おうとしたその時、胃の奥から込み上げるものがあった。まずい……そう思った時にはもう手遅れだった。
「うえっ! う"っ、ゲホっ!!」
「昌樹!?」
俺の名前、知ってたんだ。そんな嫌味は口にできなかった。
口からぼたぼたと落ちるのは先程見たばかりの醜い心。手の甲で口元を拭えばそこは真っ赤に染まり、ぴかぴかの床も汚れてしまった。
ぶわりと強い花の香りが舞う。
「すみません、ここは片付けてから出て行きますから」
「…………」
「あの、」
「だから、触るなと言ったのに……」
「えっ、……わっ!?」
掴まれていた腕を素早く持ち直され、強く引っ張られた。持っていたスポーツバッグは床に転がり、拾うことは叶わなかった。
「ちょっ、ちょちょちょちょまっ!?」
ほとんど引き摺られるようにして阿須間に連れて行かれたのは、彼の寝室。まだ一度も足を踏み入れたことのない空間に、入った途端ベッドへと突き飛ばされた。
「ちょっ、なにすんだよ!?」
ベッドに倒れ込んだ俺の上に覆い被さってきた阿須間の顔は、いつもの涼しい顔からは程遠く怖い。怒っているのは間違いないが、何故彼がこんなに怒っているのかが分からない。
「まさか、本当にここまで彼を想っているとは……」
「へ?」
「君が彼を想ってるのは結婚する前から気づいていた。でも、もしもそれを現実として見てしまえば気が狂いそうで! だから絶対に花に触るなと……感染するなと言ったのに!」
「んぅうッ!?」
阿須間が俺の唇に噛みついた。
「ンうっ! んっ、んん、はっ、あっんん!」
時折僅かに離される合間に喘ぐようにして息を吸う。だがキスなんて初めての俺には、こんな食われるような激しいものに対応なんてできなくて。
「やっ、ん! く、くるしっ、あすまさ!」
「君だって阿須間だろう!?」
怒りをぶつけるようなキスはそれから暫く続けられ、漸く互いの唇が離れたころにはもう、俺は力なく四肢を広げてぐったりとしていた。
そんな俺を、阿須間が泣きそうな顔で見下ろす。
「頼む……こんな……こんなにも甘い気持ちを私以外に向けないでくれ」
こんな、こんなに甘い……と呟きながら、阿須間が俺の唇を親指で撫でる。
そういえば、さっきからこの人は何を言ってるんだろう。
「片想いしてるのは、貴方でしょう」
疲れてぼんやりと霞んだ視界の中で、阿須間が眉を下げた。まるで迷子になった子供のような頼りなさだ。
「しているよ、ずっと……想い続けている」
自分からふっておいて、本人の口から聞かされると胸が張り裂けそうに痛んだ。堪え切れなかった想いが瞳から溢れる。
「だったらちゃんと好きな人と結婚しろよ! なんで俺なんかと結婚したんだよ!」
「だから君としているじゃないか。みっともなく偽装までして」
「な……?」
本当にこの人は何を言っているんだ? 全く話が噛み合わない。
濡れた瞳で彼を見上げれば、先ほどより更に困った顔で俺の濡れたまつ毛にキスを落とした。
「君が南條くんを想っていることには気づいていたけど、どうしても諦められなかった。しかし君との関わりは挨拶程度だし、どう距離を詰めたからいいのかも分からず……そうこうしている間に君と南條くんの婚約話が出たのを耳にして、いてもたってもいられず卑怯な方法で君を手に入れた」
え、ちょっと待って、俺が貴文を思ってるってなに!? 婚約ってなに!? 俺を手に入れたって、なんの話!?
「罪悪感でいっぱいだった。まだ君は成人すらしていないし。でも手放す気はなくて……だからせめて、君に手を出すのは成人してからにしようと決めていたんだ」
新婚初夜。心臓が爆発しそうなほど緊張しベッドに座る俺に、ただ一言『何もしなくていい』とそう言って去っていった彼を思い出す。
あの時に俺は、この人は俺に全く興味が無いのだと確信したというのに。まさか俺はずっと大きな勘違いをしていたのか?
「貴方の片想いの相手って……詩央じゃないの?」
俺の疑問に目の前の美麗な顔がキョトンとする。
「シオ? とは誰のことだ?」
───はい?
今度は俺がキョトンとする番だった。
「いやいやいや、貴方が今日散々イチャついてた岩崎詩央だよ」
本気で腹が立ち睨みつけるが、阿須間は少し考え『ああ』と気の抜けた返事を零した。
「そうか、岩崎くんのことか」
「なにそれ、ふざけてんの?」
「いや、ふざけた覚えはひとつもないし、彼とイチャついた覚えもない」
その言葉に怒りがマグマのように噴火した。
「嘘つき! 今日一日ずっと詩央にべったりだったじゃないか! にこにこにこにこ楽しそうに笑って、ずうぅぅぅうっと詩央と一緒にいたくせに! 貴方が好きな相手は詩央なんだろ!? 嘘つくなよ!」
目尻からボロボロ涙を溢して叫ぶ俺を見て、どうしてか阿須間が嬉しそうに笑う。
「なんで笑ってんだよ!」
「いや、私のことを見ていてくれたのかと思うと嬉しくて」
「はあ!?」
この人本当に頭大丈夫か? そう不安になった俺をよそに、阿須間は更に満面の笑みで俺を見下ろした。
「君の視界に、私は入らないと思っていたから」
「え!?」
「岩崎くんにはいつも君の話をしてもらっていた。幼い頃の話や、最近のことまで全部」
「俺の話をしてたの……?」
「彼とは君の話以外に話すことはないからね。確かに彼は自分の話をしたがったけど、私は一ミリも興味がないから控えてもらった」
なんだそれ。
「……詩央のことが好きなんじゃなかったの?」
「なんの話か分からないけど、好きか嫌いかで聞かれれば……うーーーん。どうでもいい存在かな」
好きか嫌いかより酷いじゃないか。思わず俺が吹き出すと、阿須間はそんな俺を食い入るように見つめた。
「そんなにジロジロ見ないでよ、穴があく」
「いや、君の笑顔は驚くほど可愛いなと思って」
「なっ!」
好きな相手に組み敷かれた状態でそんなことを言われて、体に熱が溜まらない方がおかしい。
赤くなった顔を隠すために阿須間の下で体を捩ると、それを咎めるように元に戻される。
「もっと見せてほしい」
「なに言ってんだよ」
「本当はずっと、君の笑顔が見たかった」
そこまで言われて漸く、俺は一つの事実に近づく。
「貴方の想い人って……もしかして本当に俺なの?」
これでもし違っていたら今度こそこの家を飛び出そう。そう思ったのに、それは全くの杞憂になった。
プラチナブロンドの下の白い雪のような肌が真っ赤に染められ、潤んだ瞳で俺を見下ろし言う。
「さっきからそう言っているだろう?」
今度は俺まで全身が真っ赤に染まった。
「私は君が青年会に初めて来た時から想っているし、この先も君を誰かに渡す気はないんだ」
だから、出て行かせない。そう言って阿須間が俺の両手に自身の手を絡ませた。
結婚して半年間、なんの触れ合いもなかった相手との急接近に心臓が跳ね上がる。だがそこで更なる疑問が浮かび上がった。
「でも、じゃあなんで貴方は花を吐いたんだ?」
この人は俺の目の前で花を吐いた。花吐き病は、誰かに片想いをして発病する奇病だ。もしも本当に俺のことが好きなら、俺たちは両想いということになるのに。
まさか、俺を騙すために嘘をついて? そう疑心に囚われそうになったその時、思わぬ言葉が投げられた。
「それは君が南條くんにを想いを寄せているからだろう? それもいずれは塗り替えて、必ず私のことを好きになってもらおうと」
「まってまってまってまって!」
そうだった、情報量が多くて忘れていたがその話もまだ解決していなかった。
「その貴文の話、一体どこから来てんの!?」
「そんなのふたりを見ていれば分かるさ」
「いや全然分かってませんけど!?」
阿須間が目を細めて俺に疑いの眼差しを向ける。だがそんな目で見られるようなことは一ミリも無いのだ。
「あのね、貴文は男に興味ないの。貴方も結婚話を即行で断られたから分かるでしょ?」
「男に興味がなくとも、君には興味があるのだろう。私も同じだ」
なんだか嬉しいことを言われた気がするがそれどころではない。
「違うって! 貴文は女好きなの! ホンマもんの女好き! 俺のことも友達としか見てないし、俺も同じだよ」
「違う、君は分かってない」
「なにが!」
「彼がいかに君のことをそういう目で見ているかってことをだ」
ダメだ、これでは堂々巡りだ。頭を抱えたくなるが俺の手は阿須間に絡みとられたまま、更に強く握り込まれた。
「それに彼が言ったんだ、『昌樹と婚約するんです、邪魔しないでくださいね』と」
「ええ!?」
貴文との婚約話など過去に一度も出ていない。明らかに貴文が嘘をついている。では、何故そんな嘘を……。考えて、ため息が出た。
多分、貴文は気づいていたのだ。
「阿須間さん」
「君も阿須間だろう」
怖い顔をした阿須間に、場違いにも嬉しくなる。
「あー…澄人さん。俺たち多分、貴文に嵌められた」
「……なに?」
「もう一度言うけど、俺は貴文に恋なんかしてない」
「でも君は、さっき花を」
「俺にも好きな人がいるからね」
目の前の顔に分かりやすく絶望が浮かんだのを見てまた吹き出しそうになった。この人、思っていた以上に可愛い人だな。
「貴文は俺の好きな人が誰なのか気付いてた。それに、多分貴方のことも。だからそんな嘘をついて貴方を焚きつけたんだ」
「えっと……え……?」
「つまり俺たちは、両想いだったんだよ最初から」
ぽかーんと口を開けて呆ける彼に、今度こそ俺は声を上げて笑った。
「昌樹、君は私のことを……?」
「はいそうですよ~。俺も青年会で貴方に会って、憧れて。いつのまにか憧れから遺脱してた」
「じゃあ、花を吐いたのは」
「澄人さんの好きな人は、詩央だと思ってたから……わっ!」
仰向けの俺の上に阿須間が倒れ込んできた。そのまま俺を抱きしめたかと思うと、大きく息を吸い込んで、また大きく吐き出した。
「信じられない……」
「俺もだよ」
彼の吐き出す息が首筋をくすぐるからゾワゾワする。俺がまた体を捩ると、阿須間がガバリと起き上がってマジマジと俺を見つめた。
「じゃあ、もしも私がもっと早くに素直に気持ちを伝えていたら……」
「そりゃあ、今とは全く違う半年間があっただろうけど。でも俺だってなにもアクション起こさなかった訳だし、なにも澄人さんだけのせいじゃ」
「私は自分が許せないッ!」
そう叫んで、阿須間はもう一度俺を強く抱きしめた。
本来自分より五つも年上である彼が、しかしどうしてかとても可愛く思えて……俺は自分の上に乗ったままの大きな男を撫でる。
「ねえ、やっと分かり合えたんだからさ、良しとしようよ」
肩口で、ぐすっと鼻を啜る音がする。
「これからはデートしたり、一緒に食事したり、たくさん話してたくさんイチャイチャしたい」
「昌樹……」
「それに俺、あと五分で成人すんだけど。手、出してくれるんじゃなかったっけ?」
再び勢いよくガバリと起き上がった阿須間が、ニヤリと笑った俺をキラキラとした目で見下ろす。
「ね、俺にどんなことを教えてくれるの? ダーリン?」
宝石のように輝いていた瞳が、甘く甘く蕩けるのが分かった。…………と、言いたいところだが。
未来の俺は、なぜこんな恐ろしいことが口にできたのだろうと、今の俺の言動をさぞかし後悔することだろう。
目の前で自分を押し倒している男は西洋の人形なんかじゃなく、立派な雄の獣だった。
*
*
*
シンと静まり返った薄暗い部屋の中で、小さな硝子の器を傾ける。
手の中に収まる小さなその器を月明かりが照らせば、その中身はまるで月がこぼれ落ちたかのようにキラキラと光った。
「来ると思っていたよ」
静かに開かれた扉の向こうに、友人の皮を被った狼が立っていた。
「漸く上手くいきましたか」
にっこりと笑う美青年に思わず舌打ちをすると、彼は隠さず鼻で笑った。
「そんなに敵意を向けなくたって、アイツがアンタにベタ惚れなのはもう分かったでしょう?」
「あの子がそうでも、その隣にいるのが狼なのは変わりがないだろう。……実際、こんな夜更けに人の妻の部屋の扉を開けている」
強く睨みつければ、青年──南條は降参とばかりに両手を上げた。
「そりゃあ、俺は誰よりも頼りになる幼馴染で親友なんですもん。もしもの時は慰めてやらないといけないし?」
「ふざけるな……」
「おー怖っ! 冗談ですよ、俺は今の立場を崩すような馬鹿なことはしません」
無言でじとりと睨む私に、南條は諦めの表情で笑った。
「アンタは知らないだろうが、アイツの中にあるのは零か百。もしもアイツに自分の気持ちを知られたら……俺はもう、幼馴染ですらいられなくなる」
「それで君は耐えられるのか」
「アイツの隣に居るためなら」
それこそ究極の愛なのではないかと嫉妬心が芽生えるが、同じようにはなれそうにない。あの身の温もりを知ってしまえば、手放すことは更に不可能になった。
「あ、詩央のことですけど。アイツ、昌樹に何か吹き込んでたみたいなんで気をつけて」
「……ああ」
「あとここの使用人、散々昌樹に嫌がらせや意地悪をしてくれたみたいなんで後頼みますよ。じゃあ、精々愛想を尽かされないように気をつけてくださいね」
皮肉な笑みを浮かべて去る男の背中を無言で見送った。寝巻きではなく外出用の服を着ていたことから、これから彼は屋敷を出ていくのだろう。
そしてもう一人の勘違い甚だしい青年は、私の手で。
明日。全ての使用人が入れ替わり、友人二人の姿が消えていることに彼は驚くかもしれない。
だが今必要なのは、手に入れそびれたお互いの時間。ただ、それだけ。
手の中の硝子の器を揺らすと光る白銀の液体。強い花の香りを放つそれを、喉の奥に煽った。鼻腔を駆け抜けるそれは、先程愛する相手を激しく抱いた時に自身が吐き出した花と同じ香り。
「もう二度と、間違いは犯さない」
自身から吐き出され妻のベッドの上に横たえられる白銀の百合は、隣の部屋で月光に照らされ静かに眠る妻に───どこか似ていると思った。
END
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