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第18話 静かなる公爵邸
それから文句も言わず口に運ばれた朝食を咀嚼し、無心で用を足し、散歩の準備を整えた。
車椅子と譲の手首を繋いだ鎖は短く調整され、胸の辺りまでしか手を上げられなくなった。立とうと思えば立ち上がれるが、車輪のロックに仕掛けがあり、譲に解除はできない。
だとしても譲の表情は晴れやかだ。
「ぅあー、気持ちいい」
譲は庭園に出た直後に大きく息を吸い込んだ。自然な流れで伸びをしようとしたけれど、鎖がつっかえてしまうので諦め、背もたれに体重を預ける。
「寒くないですか?」
「平気だ」
膝の上にはブランケットがある。ロマンがというより、ヴィクトルがうるさく言ったのだと思う。
過保護な扱われ方に苦笑いし、複雑な気持ちで揺れる拘束具に視線を落とす。
これがなかったにしても、脚を負傷していなかったにしても、門の付近には番犬達が控えているんだろう。
逃げられる確率は限りなく低い。
(せめて屋敷内の間取りを把握しておけるように、今日見たものを記憶しておこう)
ヴィクトルとロマンを欺 けるその時まで、譲は自分の胸を叩いて励ました。
公爵邸の庭園は屋敷と正門の間に位置するが、もう一箇所、屋敷を挟んで裏手側に中庭がある。譲の部屋から見えていたのは正門側の広い方で、そちらには噴水と大理石の彫像があった。
譲が散歩を許されたのは中庭だ。
当然中庭なので全面壁に囲われており、外から出入り不可能な造りとなっている。出入り口は屋敷内に通じているドアのみ。
「犬は、番犬はここにも?」
そう訊ねた瞬間に、中庭内をのっしりと歩いている大型犬が視界を掠めた。
窓の外にいた奴らは長細いスマートな鼻梁が特徴的だったが、中庭の犬種は潰れ鼻気味のいかつい顔。筋肉質で、しかし愛嬌のある顔だ。
「おいで」
譲は番犬に手のひらを差し伸べる。
「噛まないよな?」
「侵入者と判断されなければ噛みません」
「よかった。可愛いなこいつ」
穏やかな性格で大人しい。譲の膝に頭を乗せ、心地良さそうに目を閉じ、譲が頭を撫でるのを黙って許している。
不思議なことに、公爵邸で目にした人間の数より犬の数が多かった。与えられている部屋以外は浴室とトイレ、窓の外の目が届く範囲、現在目にしている中庭。その中で譲が見た人間はヴィクトルと、執事長のロマンの二人だった。
部屋の前の廊下はいつもひっそりと静かで、人間が暮らしている気配を感じさせてくれないのだ。
公爵邸を侵入者から守りたいのなら、警備員を雇うのが普通ではないのか。
数えきれない数の番犬ではなくて。
由緒ある公爵家なら近衛兵がいてもおかしくない。
「・・・この犬に名前はあるのか」
譲は問いかける。
「DP54番です」
「番号、かよ」
「個体を識別する際に使用するだけですので意味を成しております」
〝DP54〟は名前を呼んだロマンの声に反応して尻尾を振っている。
「なあ、ロマンさん」
「ロマンで結構ですよ」
「んじゃ、ロマン・・・、この公爵の屋敷には他に誰も住んでいないのか?」
ロマンが返答に詰まった。譲が横を見上げると、観念したように眉間を押さえた。
「使用人がいますよ、ちゃんと。僕を除く使用人はヴィクトル様と屋敷内で顔を合わせないように注意しています」
譲は目を見張ったが、やっぱりかという思いが湧いた。
そうでもなきゃ、人の少なさを説明できない。
ロマン一人で広大な屋敷を管理し続けるのは難しい。
「どうして? 公爵の命令?」
「ヴィクトル様は疲れておいでですから」
「それが理由?」
腑に落ちない。
人間の姿がないことと、そうなる理由が上手く嵌まらない気がしたのだ。
空いたパズルの穴に違うピースを提示されているみたいな。
疲れているのなら、多数の使用人を使って至れり尽くせりすればいいと思うのは常人の考えなのだろうか。
公爵の人物像をもっとよく知れば、この答えにしっくり来るのだろうか。
案外、ピースを嵌め込んでみれば。
しかし、考えている途中で譲は声を掛けられ、中途半端に思考が止まる。
「ですので、譲様は見限られないよう気を付けて下さい。我儘もほどほどに」
「え、」
ロマンは冗談を言わない。プライベートでも絶対に言わないだろうと思う。
誠実で単調な口調に、譲はゾッとした。
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