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第22話 公爵家の番犬達
「外に出る前にトイレに寄ろう」
「はい」
車椅子に乗せられた譲の心は憔悴していた。
抵抗する気力を削がれるたびに奮い立ってきたが、この時ばかりは無垢で無力な赤ん坊のように大人しかった。
ヴィクトルは譲の脇を抱きかかえる。
何度も抱き上げられていると、される側も慣れてきていた。どう身体を預けたら良いのか、頭で考えなくても自然にできる。自分で体重を移動させ、しっくりくるように動いていることに奥歯を噛み締めた。
「いいよ出して、朝から行っていなかったから尿意を感じていただろう」
譲は無言のまま、用を足す。
ショロショロと垂れ流される小水を見ても無感動だ。怒りすら覚えなかった。
これが慣れるということなのかもしれない。
「そういえば、譲は犬が好きなんだってね」
「別に、・・・いや、はい。可愛いと思います」
ご機嫌取りだけは忘れちゃいけない。
譲は言い直して、首を傾げた。
「どうして、突然」
「ロマンから聞いたんだよ」
「昨日の散歩の時のことですか」
「うん。随分とロマンと仲良くなったみたいだね」
テンポ良く会話ができている。
沈んだ気持ちを少しでも浮上させたくて、譲は「はい」と返事をした。
ロマンの話は共通の話題になる。
しかしヴィクトルは笑っていなかった。
顔を見た途端、寒気がした。
「でも仕方なくだ。ほら、仕方なく。ね? 他に喋る相手がいなかったから。お喋りに付き合ってあげたんだ」
そうすると、ヴィクトルの表情が和らぐ。
「ああ、仕方なくね」
返答に満足したのか、譲の頬を撫でる。
「犬をもっと見たいかい?」
「えっ、はいっ、それはぜひっ!」
顔色窺いは必要なかった。こちらは気を使っての返事じゃなく、純粋に笑顔が溢れた。
「じゃあ、行こう」
ヴィクトルに車椅子を押して貰い、中庭に出る。車輪のロックをかけた後、ヴィクトルは譲を置いて犬を呼びに行った。
譲は今日も鎖で繋がれているので自力で降りられない。
DP54がいないかと中庭を見渡すと、五十メートルほど離れた場所に座り、名前を呼ばれるのを待っていた。
譲と目が合うと、小さく尻尾を振る。
侵入者以外の人間には許可があるまで近寄ってこないように訓練されているのだろう。
とても賢い。だけじゃなく見た目に反して甘えん坊だ。
ロマンと散歩に出てきたこの前は、DP54とたくさん触れ合い、部屋に戻る頃にはお腹を出して甘えてくれた。
(あんなに可愛いのに番号呼びなんて、やっぱりおかしい)
愛玩用途じゃないにしても、せめて名前は付けてやればいいのにと思う。
ロマンの真意は読めなかったけれど、少なくともヴィクトルは変だと思わずにいる。
不協和音のような価値観のズレが、身分の違いによるものなのか、譲は胸に引っかかっていた。
「お待たせ、譲」
譲は振り返った。
「うわぁ、すごいな!」
ヴィクトルは十頭の犬を連れている。
訓練済みの番犬達はどれも大型犬で、ヴィクトルの脚元に並んでお座りをしていた。犬種は多種多様。譲が目で楽しめるようにヴィクトルが選んだのだと思った。
譲を襲ってはいけない人間だと認識してくれたらしく、窓を乗り越えた時のように鋭い視線をぶつけられることもない。
「触ってもいい?」
「どうぞ。譲の好きにしなさい」
「よっしゃーっ!」
譲は車椅子の上から犬達に「来い」と号令を掛ける。
一斉に走り出した彼らは、しだいに目をキラキラさせ、束の間の楽しい時間を過ごした。
遊び疲れた譲はぐったりと車椅子に背中をもたれる。
「疲れただろう。そろそろ部屋に帰って休もう。犬を持ち場に戻してくるよ」
名残り惜しいが譲は頷いた。
犬と戯れ合っている間、ヴィクトルは遊びに加わらず、はしゃぐ譲を見ていた。
今も冷ややかな声と視線で犬達の数を数え、番号を呼んで確かめている。
ヴィクトルが犬達と触れ合う様子は、好き嫌いや、苦手とは違う。まるで愛情を感じない素ぶりをする。変だと指摘してやりたかったが、それは言ってはいけない気がした。
譲はDP54の背中を撫で、ヴィクトルと番犬達から目を逸らした。
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