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第37話 人でなし

「ヒッ」  譲はそれすらも振り払った。 「譲、私だよ」 「・・・・・・っ、公爵」  耳栓が外されている。声が聞こえる。不快な幻覚幻聴は消え失せ、飛び出しそうな心臓の音が譲の耳に戻ってきた。  アイマスクは涙で濡れている。身体は横倒しになっており、駄々をこねた後のような体勢で固まっていた。  ヴィクトルが譲の手を握り直した。譲は手の甲をさすって貰って、少しばかり落ち着きを取り戻す。 「譲は脚以外にも、身体の大事な一部を戦場に置いてきてしまった。頭のネジだ。君に限ったことじゃないけれど、君は自身の症状を知らなかった」 「でも、俺は健康だって・・・言ってたのに」  譲は公爵邸に連れてこられた時の会話を思い出した。 「そうだね。言った。あの時はわからなかったんだ。私は絵画クラブの一件が引き金になったんだと考えている」  とても都合の良い話に聞こえる。譲はそれでも縋った手を強く握り、口を喘がせた。ヴィクトルが近くにいることを、こうして確認していないと息が吸えない。 「可哀想に、苦しいだろう。私がいる。ずっとここにいたよ」  囁かれるヴィクトルの声が愉悦に満ちているように感じられ、飲まされている薬が頭をよぎった。  譲は、あれは睡眠薬の類いではなかったのかもしれないと、ここに来てようやく不信感を抱く。  頭を鈍くさせ、譲を眠りの中に引きずり込もうとする薬。  あれは何の薬なのか。  正常な判断はできなかった。  ヴィクトルは———しかし譲の思考を遮ってしまう。ヴィクトルの囁きが途切れたのだ。  聴覚を取り戻したが、目は見えないままだ。今しがた譲は、暗闇が怖いと自覚した。必死に、自分を助けるかもしれない男の手を離さないようにする。 「行かないで下さい・・・・・・」  譲が発したのは置き去りにされそうな子ども同然の声だ。  返答はなく、ヴィクトルの顔が見えない。  表情がわからないので、ほくそ笑んだ顔が最初に浮かんだ。けれどそれとも、慈悲深く優しい眼差しをくれているのかもしれないと、この期に及んでわずかな期待をした。  緩んでいたネジを奪ったのは、この人でなしの手だ。  置いてきたんじゃない。譲を思い通りに自らの腕の中に堕とすための、彼の言う躾に必要だったから奪われた。悪意なくして遂行できるのは、きっとヴィクトルが何もかもを持ち、全てにおいて恵まれていて、彼自身と他人の人生の価値の違いをよくわかっているからなのだ。  胸に失望感が広がる。 (俺は自惚れていたのか・・・?)  屈辱的な扱いを受けてもなお、嬉しいと思えることもあった。彼の人柄を信じていたから、憎みきれなかった。  しかしヴィクトルが譲に与える全ては、結局はヴィクトル自身のためでしかなかった。  一方的に、人の気持ちを顧みず。  だとしても譲は、自分を助けるかもしれない手を退けられなくて怯えた。 「助け・・・て、怖いんだ」  心を繋いでいた最後の一本が切れてしまったかどうか、誰の耳にも聞こえない。  誰に知られることもない狭い世界で、譲の心は死んだのかもしれなかった。  ◇◆  上手いように誘導され、譲は暗闇の中の一つの拠り所に夢中になった。  瞼に触れられる。アイマスクは外されない。  耳にはヴィクトルの舌が這っていた。指は頬と顎のラインを撫で、首の隆起をグッと押した。首を周回する手に喉元を絞められ気道が狭まる。 「ぅっあ」 「このまま首をへし折ってしまえば、譲は動かなくなって物言わぬ人形になれる」 「か・・・・・・は、っ」  圧が強まり首の骨が軋む。苦悶する声はかき消えて、口の端に泡が滲んだ。 「だが、それは私の望みじゃない。私は譲を傷つけない。わかるね」  頷くと、手の圧が緩んだ。  気道が解き放たれ、制限された呼吸が楽になる。脳に新鮮な酸素が行き渡り、新しい自分に生まれ変わったようにも感じた。  ヴィクトルは締めた首の痕に噛みついた。うなじをぞろりと舐め上げられ、譲ははしたない声を上げる。 「はぁ・・・ん」  期待で胸が尖り、シャツに擦れて乳首が痛い。だが、そっけなく手は離れてしまった。 「ぁ、嫌だ」 「安心しなさい」  ヴィクトルはぽかりと開けられた譲の口を吸い、それから唇を耳朶に近づけた。 「服を脱がせるよ」  譲はズボンと下着を取られ、シャツは前ボタンを全開にくつろげた格好にされる。両手首は上に纏めて拘束されて吊るされ、下肢は蛙のように股を開かされて、片脚は膝を折り太腿のベルトを用いて固定された。  ヴィクトルは作り上げたものを確かめる手つきで指を滑らせる。鼠径部を撫で、臍をくるくるとくすぐり、譲が身を捩るのを愉しみながら見ていた。  譲自身は、自分の目で見えていない。指先が胸まで這い上がってくると、ゾクゾクし無意識のうちに顎を逸らした。 「あっ、ふぁ」

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