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第41話 母と末弟

 譲は日陰のベンチに降ろされ、視線を落とすと、視界に入った野花を詰んだ。    「さっきの母さん、修道服を着てた。今はこの修道院を手伝っているんだな」 「ええ」 「一番下の弟はいつも泣き虫だったのに、家族と離れ離れになるのは辛かっただろうに」  幼い末弟はまだ十歳に満たない。弟は嫌がって泣いただろう。弟が母と疎開してきた時の心情を思うと、胸が苦しくなる。心臓が石になってしまったような感じがした。  譲は、ロマンを見上げる。 「俺がしてやれることはないかな? どう思うロマン。あんたなら何か思いつくだろ」 「はぁ、僕は万能ではないのですが、そうですね・・・」  ロマンはふと思い立つと、自分のしている腕時計を外した。 「偶然通りかかった上流階層の人間を装って修道院に寄付をするのはいかがですか。待ち合わせは少ないですが怪しまれずに済むと思います」 「その時計を?」 「ええ、我々の身元が明るみにならないものはこれしかありません。こちらの時計は金と宝石が使用されていますので、換金すればそれなりの額になるかと」  ロマンの提案には感謝しなければならない。だが無力さを思い知らされる。 「でもそれじゃ俺がしてあげたことにはならない」  譲は俯いた。 「お気になさらないで下さい。この時計はから没収してきたものですから。譲様に働いた暴力行為に対する慰謝料ですよ。僕はこのように成金じみた下品な時計はつけません」 「まさか、最初から寄付するつもりで腕にしてきたのか」  呆気に取られて笑ってしまった。心に溜まった毒気まで抜かれてしまう。 「どうでしょうかね。たまたま目についたのがこれだったので」  ロマンが肩をすくめた。この調子だと猪羽教授から搾り取った財産がまだたんまりとあるのだろう。 「ありがとうロマン」 「何のことでしょう? では僕が代表者に寄付を申し出てきます。譲様はここにいて下さい」 「うん」  すぐに戻りますと言い残してロマンは屋内に入って行く。譲は溜息を一つ落とし、空を見上げた。  遮るものが何もない空。自由な景色は今日で見納めになるのだ。 (ロマンの親切に頼るのはこれで最後だな。迷惑をかける)  その時、耳元で声が聞こえた気がした。譲は弾けたように振り返る。  そこにあるのは修道院のただの外壁だ。  しかしベンチに腰掛けた譲の頭上に窓があり、施錠が外されて開いていた。  声を聞いて手が震えた。  壁の向こうで、母と末弟が会話をしている。  譲は窓に耳を近づけた。  ———真澄(ますみ)、今日もお花を供えてきたの?  聞こえたのは母の声。真澄は弟の名前だ。  ———うん。お父さんと、とおる兄ちゃんとけんじ兄ちゃんと、かんな姉ちゃんと、・・・あとゆずる兄ちゃんのお墓も隣に作ってきた。  ———そう。おいで、坊や。皆んなお空で喜んでるわね。  うんと弟が返事をし、会話が途切れる。  譲は息をひそめ、次の言葉が聞こえてくるのをじっと待つ。  母が口を開いた。  ———泣いていては兄さんも姉さんも悲しんでしまうわ。あなたが生きていることを誰もが幸せに思っているはずよ。もちろん父さんも、母さんだってそう思っているわ。辛くてもしっかり生きないといけないの。皆んなのためにもね。  母の言葉を聞く弟がどんな顔をしているのか、健気に鼻水を啜る音が教えてくれた。  譲は拳を額に当てて項垂れる。  俺は生きているよと声高に叫びたい。母と末弟にただいまを伝えて、抱き締めてあげたかった。  きっと今はチャンスだ。二人の前に姿を晒してもロマンに気づかれない。母と末弟には秘密にするよう口止めをすればいいのだから、ロマンと交わした公爵邸に帰るという条件に反しない。  一緒に暮らせなくも、せめて無事を確認し合うくらい、それくらい・・・。  しかし譲は壁に手をついて立ち上がりかけ、会話の続きを耳にして奈落に突き落とされた。  ———もう辛いことは何も起きないわ。起こさせない。母さんが約束する。真澄だけは、何があっても母さんが守ってみせるからね。  譲はすとんと腰を落とす。 (駄目だ。俺は・・・母さんと真澄にとって死んだ家族の一人であった方がいい)  何故なら、自分はこんな姿で二人のもとに帰れない。  譲は失くした脚を拳で叩いた。  母と末弟は、痛ましい出来事と最愛の者の死を乗り越えて懸命に立ち直ろうとしている。  気丈に振る舞っている母だが、その声が強がりであることを息子の譲は痛い程わかった。なまじ長男であるがために、弟妹達よりも母の弱い部分を少しだけ多く知っていた。  戦争から生き残って帰ってきた自分の見た目はどうだろう。  万全だとは言えない身体で戻ってきた譲を見たら、悲しみに暮れ、己れを責めて、傷ついてしまうのではないだろうか。  母と末弟の癒えてきた心の傷を再び掘り起こしてしまいかねない。  それぞれの心の中で一度は互いに死んだのだ。  今日のことは忘れて、修道院を訪れる前に記憶を巻き戻してしまえばいい。  そしてそれを現実にする。  自分は修道院には行かなかった。  ・・・・・・そう、行かなかったんだ。 「どこに行かなかったって?」  譲は心の声をこぼしていたらしい。砂利を踏み潰したような音がした瞬間、首筋にナイフの切先を突きつけられた。 「声を出すなよ。騒いだら身代わりが誰になるかわかるな?」

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