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第42話 魔の手
父の友人のニコライだった。
譲はナイフを持つ手を見て息を呑んだ。人差し指と親指以外の指が食いちぎられていた。
「悪いな、ちょこっと手元が狂ったらザックリいっちまうかもしれない」
契約書にサインをさせられた時と印象が変わっている。粗暴な口調は素なのだ、譲が抵抗しないと確認できると、親切に介助するふりをして立たせた。
「よしいいぜ、そのまま来い」
譲は言いなりになるしかなかった。
ロマンが戻ってくれば、譲が消えたことに気がつく。
それまでニコライを逆撫でしないよう時間を稼がなくてはと思慮する。
人の往来が途切れると古びた納屋に投げ込まれた。木造の外観を蔓が覆っており、窓枠にはひび割れた窓硝子が嵌っている。利用されなくなって長く経つのか、奥に積まれている麻袋に黴が生えていた。
他には、錆びた農工具と床に転がったライフルを見つけた。元の家主が護身用に所持していたものだろう。弾倉は空だと思われるが、殴りつける用の武器にはなる。
ニコライは譲に馬乗りになると、腹に蹴りを入れ靴先をめり込ませた。
「ぅ、ッぅ、っは」
呻き声が出てしまう。胃液が迫り上がってくる。
「畜生、腹の虫が収まらねぇが、獲物の顔はやるなって言われてんだ。しかし、あん時よりもいい顔になってんな。なぁ、譲くんよ」
顔を近づけたニコライが顎を掴んだ。
優しかった父の友人は面影をなくしている。目は憎しみで血走っており、頬に切り傷が見られた。マフィアに追われてこの程度の傷で済んでいるのが奇跡だろうか。
「お前と一緒にいた男は誰だ?」
「言えません」
「そうかよ。残念だ。金持ちそうだったからついでにとっ捕まえて土産にしようと思ったのになぁ」
「・・・ニコライさん、俺が生きてることをどこから知ったんですか」
「知らなかったよ。狙いは弟だった。そうしたら死んだって聞いてたお前さんがいたんだ」
譲は青ざめる。自分にナイフを突きつけられるよりも心臓が冷える。恐ろしいことだ。
「真澄を攫ってどうするつもりだったんですか」
「んなもん、マフィアの連中に聞いてくれ」
マフィアの手の内に堕ちれば幼い弟は売られる。
そうなったら譲は死んでも死にきれない。
「お願いします考え直して下さい。今ならまだやり直せる。白状しますから、俺はヴィクトル=アゴール公爵に世話になっています。俺が頼めばお金を工面してくれるかもしれない」
「ぁあ? いきなり何を言い出すかと思えば、とんでもねぇお貴族様じゃねぇか。信じられると思ったのか? 全く信用できねぇな」
ニコライは唾を吐いた。その後、迷いを見せた。
一晩で忽然と消えた譲。公的書類に至るまで完璧に偽装された死。譲の後ろには力を持った人物がいるという考えに辿り着いたのだろう。
「俺と一緒にいたあの人は公爵の執事で、」
畳み掛けるが、譲は交渉に失敗した。逆上したニコライに胸ぐらを絞め上げられ、「ごめんなさい」と小さな声で唇を動かす。
「ちっ、・・・うるせえっ、お前は自分の立場を弁えろ。こっちだって時間がねぇんだよ」
ニコライが忌々しそうに見下ろしてくる。
上から退けたのを見て、マフィアのアジトに連れて行かれると思った。しかしニコライは譲の手首を縛り、頭に麻袋を被せ、猿轡を噛ませると床に腰を下ろした。
「くっそ、どうしたらいいんだよ・・・っ、お前には悪いことしたと思ってるよ。けど死にたくねぇんだ」
劣化した麻袋はところどころ薄い部分があった。さらに虫食いの穴から外が覗ける。片目をつぶって覗くと、背中を丸めて頭を抱えている後ろ姿が見えた。
「一生こんなことやらされんのかよ・・・勘弁してくれよ・・・・・・」
ニコライの呟きがぶつぶつと聞こえてくる。
この男のせいで譲は散々な目に合った。助けてやる義理はない。けれども些か同情を誘うような声だ。
譲を引き渡したとしても、たった一回でもマフィアに屈してしまえば破滅する。ニコライは家畜同然の兵隊としてこき使われる人生が待っているのだ。
そんな生き方は御免だろう。逃れられるなら、あるいはと考える。
(ニコライが悩んでいるうちはまだ希望があるかもしれない。でも気持ちを固められてしまった後は、身の安全は保証されない)
ロマンの動向が気になった。
動悸が脳みそまで響いてどうにかなりそうだが、譲は冷静でいようと努める。
譲にできるのは、大人しく死人のように横たわっていることだけなのだ。
◇◆
納屋内が暗くなってきた。譲は焦りを感じていた。
これと似た状況に陥ったばかりのため、まざまざとその時の記憶が思い出される。
(公爵・・・・・・っ)
日が沈みきるには猶予がありそうだが、完全に暗闇に落ちてしまったら、また我を忘れてしまうかもしれない。
考え出すともう駄目だった。
頭の中が不安でぎゅうぎゅう詰めになって行く。
でも大丈夫のはずだ。今日は睡魔がいつもより弱い。譲が車椅子で居眠りをしないように、ロマンが外出に備えて薬の量を調整してれたのだろう。
気をしっかり持てば我を忘れるまではいかない。
しかしながら、ただでさえ麻袋越しで視界が悪い、暗くなるのは早かった。
横たわっているのに頭が重くグラグラし、息が切れてくる。
「ふっ、・・・ふっ」
「おい、苦しいのか?」
ニコライが譲の異変に気がつく。恐々とにじり寄り、様子を覗き込んだ。
「ん、ンっ」
「あ? ああそうか、喋れないのか。ちっ」
苛立ったような舌打ち。ニコライは未だにどちらを取るのか決めかねている。
「ここで待ってろ。ちょっと煙草吸ってくる」
譲は悠長な決断を待っている余裕はなかった。
「うー、っ・・・」
「うるせぇ、静かにしねぇと腹に蹴りをぶち込むぞ」
ニコライに聞く耳はないようだ。譲に脅しを入れると立ち上がり、納屋を出て行ったのがわかった。
暗い納屋の中に残されてしまった。
まるで地の底にいる怪物に見張られている気持ちになる。じわじわと真っ黒な腕を伸ばしては譲を悪夢の中に連れ去ろうとする。
(わかってる。そんなのも幻覚の一種だ)
譲は少しでも良い事を考えて平静を保とうとした。
(けど、なんだってんだよ。おかしい・・・・・・)
地下牢の時と同じ、薬が抜けてゆく冷えた感覚を覚える。
(待てよ。薬が抜けると、幻覚を見る?)
譲の額をつぅと冷や汗が伝った。
地下牢で罰を受けた時の幻覚症状は薬の効果が切れた後に現れた。
つまり、あれは気の動転が招いた思い違いだった。薬を飲まされていたのは譲のためだ。公爵は譲を好きなように仕立てたかったわけじゃなかったのだ。
———どうして。心細くなる。
虚栄心が砂の城のようにぽろぽろと崩れた。
心が負けそうになる。
今そうなっては駄目なんだと、譲がいくら踏ん張っても、下り坂を転がり始めてしまった心は歯止めが効かなかった。
「・・・ぅうう、ぅ、うううう!!」
猿轡をきつく噛み締める。汗がだらだらと流れて、じっとりと衣服を濡らした。
地下牢と同じ過去の記憶を見る直前、譲の脳裏に思い浮かんだのはヴィクトルの顔だった・・・・・・。
◇◆
「譲、落ち着いて」
納屋にいるはずのないヴィクトルの声と、何弾発目かの爆発音が重なった。
「薬を打つ。眠くなるよ。ゆっくり力を抜いてごらん」
強張っていた手脚が緩んだ。指先に感覚が戻ってくる。
口が自由になると、譲は乾いた唇を公爵を呼び求めるように動かした。
「うん、私だよ。無理に喋らないでいい」
譲は抱き締められたのがわかり、安堵して眠りについた。
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