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第46話 アゴール家の人間

 一瞬、置き物かと見紛う。ボロ切れを巻きつけられた枝のような男は、ぼうっと天井を見つめて立ち動かない。口は閉め方を忘れてしまったのか、だらしなく開かれ涎が垂れていた。 「ぅうう、ぅうう、ヴィ・・・・・・」  男は苦しみ出したかと思うと、「ヴィ、ヴィ」と唸り、両手で顔を掻きむしる。 「アルセーニー様、どうか気をお確かに。ヴィクトル様は外出中でおりませんよ。お部屋に帰りましょう」  ロマンと並んだ男は背中を丸めているにも関わらず、ロマンよりも身長が高かった。痩せ細ってがりがりの体格じゃなければ、自慢できる恵まれた背格好になっただろう。  だが哀れにも外見は見窄らしくて悲惨だった。  男の髪は櫛も通らない程に絡まり、小麦に近い色合いも相まって頭に藁を被っているみたいに見えた。目の下には隈があり、肌は乾燥と皺でカサカサで、立派なはずの男が老人と化している。  声色から想定すると、実年齢は壮年くらいだろうか。  濁った碧い瞳がギョロギョロと忙しなく泳ぎ、まるで焦点が合っていない。  その顔に譲は思わず見入った。面影がヴィクトルと被るのだ。  ロマンはアルセーニーと呼んだ男を隠すように間に立ち、振り返って譲の目を見た。 「譲様は直ちにご自身の部屋にお戻り下さいませ。何があっても、僕の後をつけてはなりません」 「わかってる。戻るよ」  釘を刺されなくてもついて行くつもりはなかった。  ロマンには譲が見てしまった男の正体を弁明する必要がある。ヴィクトルが帰宅する前に部屋に来るだろうことは確実だった。きっと神妙な顔をして。  大人しく部屋に戻った譲はベッドに寝転がり、深く息を吐いた。ひと息つき、酸素が吐き出されてへこんだ胸部。  胸の下で心臓がピッチを上げ始める。  顔を覆うと、汗が一斉に吹き出してくる。 「凄いのを目撃してしまったんだよな・・・多分」  譲は独り言を呟く。それに身体も心も疲労困憊になっていた。  熱がぶり返しそうな予感がする。譲はブランケットを引き寄せると、ロマンが話に来るまでと思い目を瞑った。  ◇◆  予想していたことだが、起きた時には朝になっていた。  寝過ごした譲の手脚はきっちり鎖で繋がれている。  案の定、熱も上がった。  朝食ワゴンを運んできたロマンは、曇った顔でピリピリと張り詰めていた。  話しかけるのを躊躇すると、ロマンの方から口を開いてくれる。 「昨晩の記憶はございますか?」 「うん・・・はっきり覚えてる」 「そうですか、できれば熱に浮かされて見た夢であるとでも思ってくれていればと期待していましたが」  言葉の最後に溜息がつけ加えられる。  譲はウッと喉を詰まらせた。 「ごめん。ロマンが襲われてるんじゃないかって思ったんだよ」 「ええ承知しています。譲様に非はありませんね」  皮肉を言ってるふうには聞こえない。けれど空気が重くてしょうがない。 「あのさ、俺はどうしたらいい?」  問いかけに、ロマンは拳を口に当て、押し殺すように声を出した。 「見なかったことに」 「わかった。オーケー」  譲は空気を変えるために、わざと軽々しさを装って承諾する。 「でもさ全部忘れるからあの人が誰か話してくれない?」  そして疑問を解消することも忘れない。 「だってさ、見ちゃったら気になるよ。俺以外にも公爵が飼っているお人形がいたの? 教えてロマン。不眠が続いて俺の風邪が治らなかったら困るでしょ」  ロマンの眉がぴくりと釣り上がったが、間を置いてしな垂れた。 「あのお方はお人形ではありません。本名はアルセーニー=アゴールと仰います。ヴィクトル様とは異母兄弟の関係で、ヴィクトル様を除き、当屋敷で暮らしている唯一のアゴール家の人間でございます」  ロマンが言うには、普段は離れに住まわせて他の使用人に世話を任せているそうだ。だが徘徊しているうちに本邸に迷い込んでしまうことが多々あるので、ああしてロマンが対応しているらしい。 「へぇ、公爵には弟がいたんだね」 「・・・・・・ええ、まあ、弟といいますか」  ロマンの歯切れが悪い。 「違うのか? 兄弟で爵位を継ぐのは兄貴の方だろ。俺らはそう習ったけど」  平民の譲は貴族社会のことには詳しくない。  ちまたで認知されている爵位制度は、爵位とは古く国のために貢献した家に対し、国王より与えられた称号であり、爵位を得た家は平民と区別され特別な権利を得た。それが一般に貴族と呼ばれ、何らかの理由で爵位を剥奪されない限りはその家の家督——多くは嫡男——へと引き継がれる。  しかし現に貴族が国にいかなる貢献をし、どんな生活を送っているのかについてはベールに包まれており、平民の知るところではないのであった。  譲が「なぁ?」と首を傾げると、ロマンは言葉を選ぶようにしながら明かした。 「ヴィクトル様が弟なのです。アルセーニー様があのような状態ですので、ヴィクトル様が公爵位を継がれました」 「よくあること?」 「ええ。理由は様々ですが、そういった意味では、平民の皆様が考えているより柔軟なものであるかもしれませんね」 「ふぅん」  よくあると言ったくせに浮かない顔をする。ロマンの眉間に深い皺が刻まれていた。  これ以上を打ち明けさせるのは気の毒になってくる 「ありがとう。もういいや。眠たくなったから休むね」  譲は欠伸をして見せた。  ロマンは安堵したように席を立ち、「今の話は忘れて下さいね」と念を押すと、ワゴンを押して部屋を出て行った。

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