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第85話 やっと

「閣下、どうされました」 「いいや気にするな」  部下の声にようやくヴィクトルは微動だにしなかった口を開いた。  譲から逸らされた視線が螺旋階段下に向く。  そこには王太子のキリルがおり、グランドピアノの腰掛け椅子に脚を組んで座り、優雅にサマになった格好でヴィクトルを待っていた。 「今行く」  とヴィクトルは部下に伝えると、譲に視線を戻した。 「君も来てくれ」  譲は瞳孔を揺らして、見つめ返す。 「構わないな?」  ヴィクトルは近衛兵団の多分は纏め役にあたる男に許可を取り、身を翻し背中を向けた。  着いてこいと無言の圧力を感じる。纏め役の近衛兵からは「行け」と顎でしゃくられ、譲はヴィクトルの背中を追いかけた。 「お待たせして申し訳ない。部屋に戻りましょう」  上下関係を鑑みれば当たり前だが、ヴィクトルが他人を敬う姿勢を初めて見る。  キリルはさも当然に聴き流し、近衛兵に扮した譲を指差した。 「彼はどうしたの?」 「人前で粗相をしたので。後ほど私は席を外させて頂きます」 「ああ、別にいいよ。君もそういうの好きだね。お陰で家臣達の統率が取れるから助かってるけど」 「恐れ入ります」  ヴィクトルが一礼すると、キリルは立ち上がって譲に顔を寄せる。 「ねぇ兵士君。死なないで終われたら僕の部屋においで、慰めてあげる」 「え、し、死ぬ?」  譲は驚いて、対応に困窮する。 「キリル殿下、お戯れも程々に。貴方様が相手になさるような身分の者ではございません」 「相変わらずヴィには血も涙もないねぇ。僕は男でも女でも金持ちでも貧しくても可愛い子なら誰だって大歓迎さ」 「そちらに関しては何も申しません」  見たところキリルは、ヴィクトルをヴィと親しげに愛称で呼ぶ間柄。譲は自身の胸に嫉妬心が翳ったのを知り、苦笑いを噛み殺した。 「冗談はさておき参りますよ。べコック側への顔見せは済みましたから、殿下はご自由になさっていて結構です」 「そうだね。行こうか」  気心の知れている者同士のくだけた会話が目の前で交わされる。  ふつふつと嫌な感情を抱きながら、そして螺旋階段を昇り、譲は最上デッキに脚を踏み入れた。  このフロアは軍艦テティスがイェスプーンを出航した直後に入ったきりだが、やはり空気が異なる。数々の要人が客室を使っている為に、警護の数も総じて多く置かれ、互いを牽制し合うようなピリピリとした空気が放たれていた。  警護要員の中ではロイシア王室の近衛兵が最も格式高いが、対してべコックは軍事政権ともあり負けじと剣呑な面構えが窺える。  考えなしに忍び込んでいたら危険だっただろうと、譲は通路を進みながら胸を撫で下ろした。  しかしながら今の状況が良いのかどうか未だ判断しかねるが・・・ともかくヴィクトルに接触し、認識されることに成功した。  キリルを客室に送ったのちに、二人きりになれる。 「殿下、お部屋です。外に兵が立っておりますので異変を察知しましたら直ちにお伝え下さい」 「ああ。わかってる。それよりその子使えるうちに寄越してよ。手加減してやって」 「ご心配なさらずとも他国の艦の上で酷くは致しませんよ。ですが殿下のご希望には添えませんね。既に殿下の寝室はいっぱいでしょう?」  ヴィクトルとキリルの会話にどきりとしたが、贅沢な客室は甘い色香と声で満たされている。  キリルは無礼にも思える発言を咎めることはせず、笑って客室に消えていった。きっとこれが彼等の日常なのだ。 「では、お前はこっちだ」  譲はヴィクトルに二の腕を掴まれ、痛みに眉を顰める。  力加減がいくらか乱暴な気がするのは、まだ人の目があるからだ。  今のヴィクトルは外向きの顔。アゴール公爵の振る舞いをしている。  人を人でないかのような目で見る、冷たい視線と手。  譲には向けられたことのないもの。  ヴィクトルの違う顔を知らなければ、恐ろしいだけの冷酷な男と思っただろう。  そのまま二の腕を引かれると、キリルの客室の斜向かいにあるドアから中に押し込まれた。外の目が完全に遮断される瞬間まで余念がなく、譲は背中を突き飛ばされる。  膝をついた譲の後ろでドアが閉まり、ヴィクトルが深く深く息を吐いたのが聞こえた。 「譲、会いたかったよ」  第一声に涙が込み上げ、この時ばかりは我慢ができそうになかった。 「公爵・・・っ、ごめんなさい、俺は」  立ち上がった譲は強く抱き締められ、「ひぐっ」と言葉を飲み込む。 「すまなかったね譲、私が悪かったのだろう」  譲だけに許された変わらない優しい声、声色が、ゾッとするくらいに耳に絡みついて離れない。  まるで胸に焼きごてを当てられたみたいに、会いたかったと声を聞いた時の感情の高ぶりが比じゃない程に、今はもっと熱が上がっていた。  冷たかったヴィクトルの手も体温を上げている。 「このまま一つになってしまえたらいいね」  ヴィクトルが愛おしい声を出す。 「一つに?」 「そう。私の中に譲を閉じ込めて二度と離れないようにしてしまいたい。だが・・・。譲は私の気持ちが恐ろしくなったのだろう? だから逃げ出した。違うかい?」  譲は寂しげな表情をしたヴィクトルに目を丸くする。 (変わらないな・・・公爵は。全然違うよ、大不正解だ)  やはりヴィクトルの見解は検討外れも良いところだ。  賢いくせに、可哀想で哀れなひと。    「理由なんてもういいんだ。どうして船に乗った? 死んでいたかもしれなかったのに・・・っ。公爵ならセレモニーの狙いに気づいてないわけないよな?」  譲がもしも憎しみに支配されていたら命取りになっていた行動だった。 「もしかして王太子殿下に同行しなくちゃいけなかったから?」  そう考えでもしないと理解できない。  しかしヴィクトルは 「譲の言うとおりだけど、此度のセレモニーにキリル殿下を参加させるよう仕向けたのは私だ」  と、不明瞭な答え方をした。

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