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第102話 最終話 この願いのために

 その後イザークは他愛無い話をして、夜になる前に帰った。  帰り際にまた来ると告げた男にロマンがノーと言い返せないのを見て、エマール男爵とアゴール公爵家の関係性の変化が窺える。 「彼は我々の監視役なんです」  と、ロマンは誰もいなくなったエントランスホールで苦々しく舌を出した。 「部屋に戻りましょうか。ヴィクトル様が帰宅される前にお食事と入浴を済ませておきましょう」 「うん」  譲は車椅子の上から返事をする。  眠っていた間も清潔にされていたようだが、熱い湯を浴びるとぽやぽやしていた頭が完全に目覚めた。着替えを手伝って貰い、久しぶりにヴィクトルが買い揃えた寝巻きに袖を通す。 「あれ、いいの?」  譲は両手首を突き出して、首を傾げた。  ベッドに寝ていた時も拘束具がなかった。 「ええ、ヴィクトル様から仰せつかってませんから」 「ふぅん」  部屋に戻りしばらくして夕食が運ばれてきた。  ベッドで寛いでいた譲はドアに視線をやる。ロマンがワゴンを押してくる姿が懐かしい。帰ってきたんだと、ほっとする気持ちになれる。  ロマンはワゴンに載せた料理をサイドテーブルに並べ、一歩下がると一礼した。 「どうぞ、召し上がって下さい。消化に良いものを作らせました」 「えっ、普通に食べていいの?」  置かれたフォークとスプーンを前に戸惑う。  せっかく元の生活に戻ってきたのに寂しい感じがする。 「なんか・・・やだ」  勝手に心の声が漏れた。 「僕は言われた指示に従っているまでです。譲様からヴィクトル様に訊かれてみては?」 「絶対そうする」 「しかし今はしっかり食べて下さいね。ヴィクトル様が心配されます」 「うん・・・わかったよ」  譲は項垂れて、スプーンを手に取った。  スープを一口含み、飲み込む。単調な作業の繰り返しだ。味気ない。美味しいのに手が止まそうになり、ハッとするたび慌ててスープを掬った。  夕食の後はまた一人になった。よく考えてみれば、拘束されていないのだから、このまま出て行くこともできるのだ。窓が内から簡単に開けられるのを知っている。だがどうしたってできない。したくない。拘束されていないと・・・心許ない。 (公爵、早く帰ってこないかな)  ヴィクトルに会いたくて。窓の外を眺めた。  部屋から正門は見える位置にないけれど、譲はじっと目を凝らしヴィクトルの影を探していた。  その時、廊下で靴音が鳴る。 (帰ってきた!)    まるで大好きな飼い主を待ち望んでいた犬の気持ちだ。  嬉しいという感情がするっと心の中に入ってきて沁み渡る。シャンパンの泡のように喜びがぱちぱちと跳ねまわった。 「ただいま、譲、帰ったよ」  愛おしい声に、譲の頬は熱を帯びて紅潮した。 「おかえりなさい! 公爵・・・俺・・・、ぁ」  言葉が途切れる。  ドアから顔を出したヴィクトルの包帯姿に声を失う。  昼間のロマンの辛そうな顔が理解できた。  ヴィクトルは包帯の下に深刻な火傷を負っていたのだ。  爆発に背中を向けて譲を庇っていたので、顔はかすり傷程度で無事だったが、首の後ろから背中にかけての火傷が酷かった。  生きていたことが奇跡であるものの、痛々しい姿に胸が潰れそうだった。 「ごめんなさい、俺のせい・・・ですよね、ごめんなさい」  譲はベッドを降り、ヴィクトルの足下まで這って進んだ。 「こら、目覚めたばかりなのに無理は良くない」  ヴィクトルは譲を横抱きにする。 「降ろして下さい! 俺なんかより公爵が・・・・・・」 「見かけ倒しだよ。私は痛みに鈍感でね。見た目は酷いもんだが、平気なんだ。お陰でロマンに怒られてしまうよ」 「そうですよ! 何言ってるんだ! ロマンの言う通り身体は平気じゃないでしょ! 公爵が死んじゃったら俺は・・・俺はっ」  譲は喉を詰まらせ嗚咽する。  ぼろぼろと涙が止まらない。 「泣かないでおくれ、可愛い譲。せっかく目が覚めたのに悲しくなってしまったのかい?」 「違う・・・ちが・・・ン、んっ」 「無理はさせられないからキスだけするよ」 「・・・はぁっ」  譲は口づけを受けながらベッドに戻され、ヴィクトルのキスに言いたかったことを吸い上げられてしまった。  瞼に涙が溜まり、瞳が潤む。  視界がぼやける。額にキスを落とした後に、ヴィクトルは譲の瞼に唇を寄せた。こぼれ落ちる寸前まで溜まった涙を舐め、目を細めて頭を撫でた。 「明日くらい休んだらどうですか? 一日一緒にいてよ」  譲はヴィクトルのジャケットの襟を掴む。 「サボるとエルマー男爵に屋敷から追い出されてしまう」 「またそういう冗談言って・・・・・・」 「ふふ、こればっかりは冗談じゃないんだ。すまないね」  口調に嘘偽りを感じられない。 「ぅ・・・なら、俺からもエルマーさんに言おうか?」 「いけないよ」  ヴィクトルは譲の耳を手で塞いだ。そして耳元に口を近づけ、ヴィクトルの声だけが鼓膜に響くように言った。 「譲は何もしなくていい。もう何も見聞きしてはいけない。外で起きていることは私が何とかする。これは私からのお願いだ譲。譲はまだ外に未練があるのかい?」    初めて聞いた自信なさそうな声。  そんな願い方されて断れるわけがない。  譲は諦めて顎を上げた。 「じゃ、もっかいキスしてよ。それと、ん」  手首を持ち上げる。 「枷がないと落ち着かなくて」 「勿論だ。譲が望むなら幾らでも与えよう」  ヴィクトルが優しく唇を合わせてくれる。  身体も重ねたいところだが、今夜は我慢だ。  明日でも明後日でも来年でも、ここでヴィクトルの愛するお人形として暮らしていれば、いつでも好きな時に抱き合えるのだ。 (今度の枷は一生だな・・・泣いて懇願しても外して貰えなさそう)  でも構わない。二度と外には出られなくても、外の世界にヴィクトルよりも大切なものは何もないのだから。  ヴィクトルが枷を持ってくると、差し出していた譲の手首に嵌め、枷の上に愛おしそうにキスをする。 「可愛い譲、本音を言えばこの部屋から一歩も出してやりたくない」 「ン・・・いいよ、公爵」  譲は近づいてきたヴィクトルの唇を舐めた。  あぁゾクゾクする。  最高に愛してる———。 ------------------------------------------------  ラブドールは以上でおしまいです。長らくおつきあいありがとうござました。《倉藤》

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