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夏が始まるよ

「綿貫君、本当にシティサイクルで良いの? 変則ギア付きマウンテンバイクもあるよ?」 「はい。こっちでお願いします!」  学生課で借りたシティサイクル、つまりママチャリが、夏休みの間は俺の愛車だ。大学は山の上、観光で賑わう温泉街はその裾野。マウンテンバイクが便利なのは判っている。でも、この夏は、後ろに荷台が無くては意味がない。  大事な人を乗せるのだ。  片想いはそろそろキツいんだけれども、でもきっと、伝えてしまえば全てを失うに決まってる。今はまだその時ではない。  同じ学生寮の衣笠が、夏休み期間中はアルバイトすると言いだした。そこでバイトのある日の送り迎えを申し出たのだ。表向き、筋トレの重石役として自転車の後ろに乗れ、と阿呆な口実を取って付けた。あいつが真に受けて乗ってくれる程度に阿呆で良かった。  あんな無防備な奴を野晒しにしたら、あっという間にオオカミの餌食になってしまう。  真意を隠し、食事を管理し栄養を摂らせ、着るものの露出度に気を配り、過酷なバイトは避ける。この程度の誘導は『親友の助言』で何とかなるものだ。  先週ようやく、衣笠の為の色白肌専用のサンオイルが届いた。失敗焼けしないと評判の日本未発売品を、海外サイトから個人輸入した。夏の計画に必要なアイテムが揃うとワクワクする!  ……育成系ゲームみたいに言うな、俺。衣笠がペットじゃないことはちゃんとわかってる。  でも、どうにも放っておけなくて。  俺が衣笠を守る。そう決めたのはまだ桜の咲いている頃。  大学の敷地内にあるこの学生寮に俺が入寮した次の日、衣笠はやってきた。  挨拶しながら自室を探す衣笠は、中肉中背、別に目立ってチビではないのだけれど、色白な頬を真っ赤に染めて、着膨れたダッフルコート姿でおもちゃのように歩いて行く。手荷物を減らすために着られるだけ着込んだのだ、と笑った。  ……なんだこの純粋な笑顔!  直接言葉を交わしてもいないのに、気になって仕方がない。  この人には卒業までここで笑っていて欲しい。  そんなささやかな希望を搔き消すような企てを、俺は聞いてしまった。  『キヌガサだったら男でもイケル』  『腹にワンパンで…』  『二人で挟み撃ちすれば連れ込める…』  物騒なことを。自分がされたら嫌なことは、他人にしちゃあいけないって幼稚園で習わなかったのか?  武道の心得どころか、スポーツの経験もロクに無いけど、盛り上がっている奴等がどうにも許せなくて、ワザと椅子を大きく鳴らして立ち上がった。目線を向けないまま組んだ指の関節を鳴らすと、話し声がピタリと止んで散り散りに席を立ち、話は終わった。不機嫌な俺のバキバキ鳴らす音だけが共有スペースに響いていた。  ……勝った! やった! ハッタリ成功。  それからの俺は、あいつが標的の不穏な話が聞こえる度『見えるところでアクションを起こし、盛り上がる前に解散させる作戦』を地味に決行し続けた。  なんとなく真似て動いているだけ。なのに、不思議と筋肉って育つんだな。スクワット、ストレッチ、ボディビル、太極拳、柔術、ラジオ体操、カポエイラ……。牽制の頻度が増して、いつしか、いつ見ても単独で筋トレしている“トレーニングオタク”のポジションを得た。不思議だな、ついこの間まで、何もできないデクノボウだったのに。  面白くなって各社のプロテインを試したり、筋肉の名称を暗記したりしていたので、今では衣笠から「プロテインマニア」「筋肉ラヴ」などと怪しい称号で呼ばれる始末……。  なんとでも呼べ。お前がつけたあだ名なら、どんなへっぽこでも大歓迎だ。  俺が本当に夢中なのは、筋肉じゃなくてお前だ、なんて、真っ直ぐ過ぎる衣笠は微塵も感じていないんだろう。  気が付かなくていいから、隣に居させてくれたらそれでいい。  卒業までの四年間、俺が守ってやるから。  ……バイトなんか行かなけりゃ、隣に居られるのに。と、正直思った。  でも、往復のチャリ通勤の時間は、ガキみたいに騒ぎながら過ごす貴重な時間だ。  さあ、これから、宝物みたいな夏休みが始まる。

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