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あの店に彼がいるそうです20

 ふわっと、足元から地面がなくなって甘い薫りの中を漂いながら落ちていく心地好さ。  意識が遠くなりかけた感覚に似てる。  心臓が浮遊感に見舞われて、眠気のような脱力。  彼女が視界に入った途端、俺は勘づいた。  類沢さんをその身から離さなかった空気を持つ唯一の女性。  弦宮麻那。  晃が連れてきた彼女は、仮面を通しても逃れられない迫力ある妖艶さがあった。  足音ひとつにざわめく。  オペラという美しい空間で更に存在を主張して、控えめな笑みを浮かべ俺に歩み寄る。  気を緩めたら抱きついて泣きたくなる。 「オペラへようこそ」  やっと絞り出したその挨拶に、麻那は穏やかに会釈して晃から手を離した。 「素敵なドレスですね」 「ふふ。年甲斐もなくね」 「そんなことありませんよ。お似合いです」 「瑞希くん」  名前を呼ばれて一気に重力を感じる。  そうだ。  夢。  あの時聞こえた声と同じだから。  その場所は、貴方にふさわしいのかしら。  目の前にした彼女は、口の中でそう囁いているようだった。 「沢山聞いたわ。貴方のお話」  首筋に力が籠り、脈が響く。 「……類沢さんからですか」 「ええそう。雅から」  雅。  息子を呼ぶかのように、愛しさが見える。  彼女は、膝の上で手を絡ませた。  指輪一つない白い手。  細くて、脆そう。 「俺も聞きました。貴女のこと」 「そう。施設時代の話を出来るなんて、貴方の存在は本当に大きいのね」  ゾクゾクと背中が冷える。  嬉しいような、怖いような。  俺はさっきから真っ直ぐ目を見て話すことすら出来ていない。  仮面に感謝しているくらいだ。 「大切な人だと聞いてるわ」 「きっかけは借金ですがね」 「正しい形式なんてない」 「やっと返済し終えたんです。堂々とオペラの瑞希ですって名乗れますね」 「ふふ。良いわね。良い名前」 「類沢さんには敵いません」 「名前に劣らない子に育ってしまったわ」 「育てた貴方なら誇らしいことじゃないですか」 「わからない。遠くに遠くに行ってしまうから。雅はいつも」  グラスを持ち上げ、黄金に揺れる液体を見つめながら過去を思い返す。  目の印象が和らいだ。 「……長かった」  俺は、ただ頷いてホストになってからのことを一つずつ思い出していた。

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