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祥吾編1

 それは、どこからともなく生まれる。    それは、ヒトではあったが人間ではなかった。  食物連鎖の頂点に立っていた人間は、ヒトによって狩られる立場へと変わることとなった。  人間を狩るヒトは、『カリビト』と呼ばれるようになった。漢字が当てられて、狩人。  為すすべもなく狩られるだけの人間であったが、狩人に対抗し、人間を守ろうとする者たちも現れた。  狩人は人間よりも強かったが、弱点が無いわけではない。  狩人を撃退し、人間を守る『モリビト』だから、即ち、漢字では守人。    小説や漫画やゲームでは、よく見る話。    けれども当事者たちにとっては、よくある話じゃ済まされない。  生きるか死ぬかの人生に、直面するのだから。   ● 「…」  例えば俺、橘祥吾。たちばなしょうごと読む。少しは珍しい名前だけど、ちょっと古臭い名前と言われるこの俺の。 「…」  隣の部屋に狩人が引っ越してきた場合。 「…どうも」  引越しのご挨拶にと『信州そば』を頂いてしまった瞬間の、俺の心理を50文字以内で述べよ。 「…って…何で?」 「何がだ」  玄関の扉を開いて硬直したまま引越しソバを受け取った俺の素朴な疑問は、実に真っ当なものだと思うんだけど。  人間ならざるカリビトさんには理解できないご様子。 「いや、だって…」  初対面にも関わらずタメ口だったあたりが、実に慇懃無礼な狩人っぽい。けれども引越しソバを持ってくるあたりの礼儀作法は、そこそこの年齢の人間っぽい。 「ソバドコロに、よく信州ソバなんて持ってきやがったな、このヤロウ、ってことですよ」 「信州蕎麦は、全国区に広がる有名な蕎麦だぞ」 「知ってるからムカツクんでしょ。有名な新潟産の米をコメドコロに土産で持ってきやがるのと同じ理屈ですよ、このヤロウ」 「土産への愚痴は、来訪者が帰ってから言うものだ」  軽く腕組み仁王立ち。  マンションの廊下で、人の部屋の前で、仁王立ち。けれども言っていることは非常に真っ当だ。 「…ちょっと」  その腕を掴み、玄関の中に無理矢理引き入れる。一瞬金色の目が光ったけれども、一切の抵抗もなく狩人は俺のテリトリーに入り込んだ。  玄関の扉を閉めて、ステンレス製の下駄箱に背を預けた男の両頬の傍に、両手を突く。 「…正直に言いますが」  男は、顔を背けることなく俺を見ている。その表情には喜怒哀楽驚のどれも映っていない。 「かなり、タイプです」 「土産が気に入ったなら良かった」 「そっちは『よく考えて持ってこい』って言ったでしょ。俺は、あなたのような男が好みだってことですよ」 「俺は、ただ挨拶に来ただけだ」 「いいじゃないですか。挨拶がてら食事でも」 「…」  男は、初めて口ごもった。俺から目を逸らすことはない。けれど、口を閉じて言い淀む。わずかに金色の目が揺れた気がした。 「…分かってますよ」  迷うような素振りの男の耳元に、口を寄せて囁く。 「さすがに、初対面の男といきなり食事なんて気分じゃないってことくらい」 「常識は持ち合わせていたか」 「さぁ…どうですかね。ソバドコロに他所のソバ持ってくるようなヤツと…変わらないんじゃないですかね」 「根に持つな」 「持ちますよ。だから今度、地元の美味しいソバ屋に連れて行きます。でも今日は…」  その闇色の後ろ髪を、ぐいと背のほうに引っ張る。男の顎が軽く上がったところでそのまま唇を塞いだ。 「…んっ…」  舌を挿し入れて相手の舌を求める。絡ませて吸うと、男は小さく震えた。  抵抗はない。抵抗なんてするわけがない。けれども求めてくるわけでもない。 「…美味いですか、俺は…」  白い首筋が目に入った。その首筋を舐め上げたい衝動に駆られる。 「…毎回、こんなことをしてるのか」  軽く睨むような目つきだった。狩人にたしなめられるとは思わなかったな。思わず苦笑が滲む。 「しませんよ。言ったでしょう。好きなタイプなだけです」 「俺たちのようなのが好みなのだろう。変態だな」 「…まぁ、否定はしませんが」  でも、と添えながら、男の表情を見た。男は喜怒哀楽に乏しいようだが、少しだけ眉を寄せて何とも言えない顔をしている。それが面白い。 「男に襲われるのは、初めてじゃないでしょ?あなたはかなり色っぽいし」 「男にこういう襲われ方をするのは初めてだ」 「じゃあ、男と経験ないんですか」 「あるほうが珍しいだろう」 「おかしいな…絶対あると思ったんだけどな…」 「服を開くな」 「ダメですか」 「ファスナーを下げるな」 「イヤですか?」  その場に膝を付き、取り出したものに唇を当てると、男は目に見えてびくりと震えた。ちらりと見上げて顔を見ると、どこか強張った表情になっている。  分かってる。咥えられたくはないんだ。それは、ヤツラ独自の理由によって。  口に、相手の部位を含むということは、すなわち。 「…やりませんよ。キライでしょ」  そのまま片手で軽く握り擦ってやると、男は片手で口を押さえた。 「…っ…」  声を出すのを抑えているんだろう。本当は欲望のままに咥えてやりたいけど、代わりに男の表情を眺める。 「…んっ…」  目を細めて耐えているようだった男の視線が俺とぶつかり、男は少しだけ嫌そうな顔になった。 「…見てて楽しいか」 「楽しいですよ。イヤですか?玄関先では」 「…」  男は答えない。まぁ、扉一枚向こうは外だ。声なんてあげて、誰か通りかかったら恥ずかしい…というのは普通の人間の感覚かな。 「イヤなら中に入ります?散らかってますけど」 「駄目だ」 「ん?」 「中は…」 「俺は、あなたが部屋の中に入ってくれたほうが、嬉しいけどな」  立ち上がり、軽く抱き寄せる。やっぱり抵抗はない。華奢な体格だ。こいつらは大体華奢だけど。 「…分かってて言ってるのか」 「分かってて言ってますよ」 「罠でも張ってるんだろう?」  ようやく、男はそう言った。やっと、疑念を口に出した。  だから、俺は微笑む。 「はい、張ってます。すみません」 「正直に告白されて、素直に乗るわけには行かない」  罠を張ってると言った俺に、男は怒ることも睨むこともしなかった。ただ、淡々と断っただけだ。 「悪い気はしなかった。だが帰る」 「待って」  物を収めて俺から逃れようとするその人を、その腕を掴んだ。 「悪い気がしなかったなら…もう少し。あなたがイヤじゃないんなら、もう少し…」 「…」 「時間稼ぎとかじゃないです。俺は、あなたの体が欲しいんだ。中に入れとは言いません。ここで、挿れさせてもらえませんか」 「…お前は、もう少し言葉の選び方を考えたほうがいい」 「愚鈍なほど率直じゃなきゃ、俺の気持ちは伝わらないでしょ。俺だってわかってますよ。あなたが俺のことなんて信じられないってことくらい。どんなに言葉を重ねても、信じてもらえないことくらいは」 「ではお前は、その為だけに、俺の部屋を訪ねることが出来るというのか?」 「入れてくれるんですか?」 「…」  間髪いれずに尋ねると、男は呆れたような顔をした。そして、小さく首を振る。 「すっかり長居したが、俺は近所周りをしていただけだ。いきなり部屋に入れるほど親密になるのもおかしな話だろう」 「そこで急に常識ぶるのもおかしいでしょう」 「俺は常識人だ」 「…」  居直られた。まぁ、少なくとも俺よりは常識があるんでしょうね。そうでしょうとも。 「では帰るが、今後ともよしなに」  そうして軽く一礼すると、男は扉を開けて出て行ってしまった。 「よしなに、か…」  ただの捨て台詞じゃないんだろう。  残されてしまった信州ソバには、ご丁寧に熨斗が張ってあった。裏を返せば、墨で名前が書かれてある。 「…油断しすぎだろ、あいつ…」  そこに書かれていた名前を見て俺は肩を落とし、扉へと再度目をやるのだった。     ●  なんていう一幕があったのは、昨晩の話。  さて、貴方が取ったり食われたりする世界の住人じゃないなら、どう思っただろう。  ちょっととぼけた隣人と、貪欲な欲望の亡者の話?  初対面の相手をレイプしようと待ち構える犯罪者と、何も知らずにやってきた哀れな子羊の話?  事態はそんなにほのぼのした話じゃない。    貴方が俺と同じように、取ったり食われたりする世界の住人なら、どう思うだろう。  ちょっとこれは、尋常じゃないなと思ったんじゃないだろうか。    カリビトは、姿形は人間と同じだ。総じて男女問わず華奢で、でもスタイルはいい。男の中には稀に体格がいいのもいるが、そういうヤツは大概恐ろしく凶暴だ。体格がイイってことは、イイモノを食べてるってことだから…どういうことか分かるよな?   ヤツラが華奢なのは、色んな理由がある。  第一に、獲物の油断を狙うため。勿論獲物というのは…人間だ。ヤツラは人間を食って生きている。  人間と同じものも食べるらしいが、人間以外はあまり美味しいと感じないらしい。栄養が全く取れないというわけではなく、人間を食べなくてもとりあえずは生きていけるらしい。いずれは栄養失調になって死ぬだろうが。  やけにヤツラが色っぽいのも、同じ理由だ。獲物の油断を誘い、獲物を引きつけるため。  でも、ヤツラの大半が華奢なのは、現実的な理由からでもある。  それは、人間を食わなければ栄養失調になっていずれは死ぬ、というのと同じ理由だ。  つまりほとんどのヤツラは、太れるほど人間を食べることが出来ていない。    それを哀れと思うかどうかは…。  貴方が、食物連鎖の頂点に立っている世界の住人なら、哀れと思うのかな。  でも食われる側の人間からしてみれば、栄養失調で全ての狩人が死んでくれれば、というのが実際の気持ちだと思う。狩人さえ居なければ、毎日怯えながら生活しなくても済む。いつどこに潜んでいるかもしれない、もしかしたら隣人かもしれない。そんな不安に苛まれずに済む。  カリビトに対抗できるモリビトに守ってもらうには、恐ろしく金もかかる。  結局貧乏人は、いつの世も貧乏クジしか引かされない。そんな嘆きが新聞の紙面を踊ってるくらいだ。    モリビト。すなわち、守人。  守人は、狩人に対抗できる人間だ。正確には、職業みたいなものだ。  職業軍人っていうのかな。守人組織に所属しているのが圧倒的に多くて、次いで、組織を嫌って個人または少数で活動する、フリーの守人。ごくごく一部だけど、特定の人の護衛をしていた人が、訓練して守人になってそのまま仕え続ける、なんていうのもある。  守人が他の傭兵や軍人と違うところは、守人には狩人と人間の違いが分かるというところだ。  一般的には、人間とカリビトの間に見た目の違いはない。だから、普通に生活していても気付かない。「まさかあの人があんな事件を犯すなんて…」と言われるくらい、気付かれない。稀にいる目立って凶暴なヤツは、そもそも隣人として生活できないから例外だ。  でも守人は、狩人かどうかが分かる。これは後天的に身につけることが難しい、一種の特殊能力のようなものだ。  この特殊能力を持つことで、小さい頃に狩られてしまうことも多い。正体を隠して生活する狩人にとっては、天敵でもあるからだ。だから狩人から守るために、幼少時に保護施設に引き取られて育てられることも最近は増えている。    そうして無事成長した特殊能力者のほとんどは、守人として訓練を受ける。  仕方なくその道にすすむ者も多いが、給料は高い。学生の頃から訓練を受けていれば、学生時代のバイト代だけでも、一般のサラリーマンの給料を超えてしまう。  けれども守人は結局、職業軍人だ。  狩人と運悪く遭遇すれば、戦うしかない。  戦うという事は…死ぬ可能性があるということだ。むしろ、死ぬ確率は恐ろしく高い。    狩人は、近代兵器で死なないわけじゃない。  それこそ、狩人のアジトでもあれば、ミサイルでも撃って攻撃したほうがてっとり早い。ミサイルに当たって生き残ったという話は聞いたことがないが、戦車に撃たれて爆散したという話は聞いたことがある。けど、拳銃の弾が一発くらい貫通しても、ヤツラは人間よりも早く動く。  ヤツラはあまり群れることがない。だから駆逐も難しい。多くの住民がのんびりと暮らしている街中にミサイルをぶち込むことは、さすがに国家も行わない。そこに10人単位で群れているならともかく、たった1人の狩人がいるだけならば。    だから、ヤツラは滅びない。  だが常に駆逐され続けるヤツラの数はそう多くなく、反撃するほどの力は無い。  何よりヤツラは、自分たちの「食料」を確保しつつ、それなりに平穏に暮らそうとしている。  だから、ヤツラは滅びない。  だから、人間に平穏な生活は訪れない。

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