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9.立ち上がる(1)

    まだ夜も深い。  一仕事終え、月明かりが照らす長い階段を降りていくと、クレマンが控えていた。   「旦那様、お疲れ様でございました」 「起きていなくていいと言っただろう」 「私が勝手にしたことでございますので、お気になさらず。それで、奥様のご様子は」  流石は執事長だ。あれのことを真っ先に「奥様」と呼ぶとは。 「気絶した。これでもう僕に逆らおうだなんて馬鹿な真似はしなくなるだろうな」 「左様でございますか。治療などはどう致しましょうか」 「いらん。数日もすれば歩けるくらいにはなるはずだ……ああ、だがシーツは変えておけ。だいぶ血が染み付いた」 「承知いたしました。お夜食の準備は出来ております」 「ああ、今行く」  深夜を過ぎ、苦しみのあまり途中で意識が途絶えた稀人を貫き続けた。部屋を去る時も、稀人は何度かひきつけを起こしては嘔吐していた。気を失いながらも、時折、『ナギサ……』とか細い声が聞こえてきた。聞き取り辛かったが、聞き覚えのあるフレーズだ。稀人が口にするニホンゴ、というやつだろう。そういえば、共にこの世界に来た兄がいたとかいっていたな。本当に死んでいるのか、はたまた実在の人物なのかは後で調べさせる必要がある。 「今後、奥様のお食事などはいかがいたしましょう」 「あれに時間と金を費やすなとシェフには伝えておけ。最低限の栄養さえ与えていればいい」  枷は付けているがあれは稀人。細い見た目だが人間よりも足腰は強い。体力を付けられ逃亡されでもしたらそれこそ金の無駄だ。 「かしこまりました……あの、旦那様、口許にお怪我を」 「ああ、噛まれたんだ」    ハンカチを渡そうとしてきた執事を制し、ぐいと親指で唇を擦れば、生暖かい血が手袋に付着した。そこそこの痛みだ。随分と深く食いこんだらしい、歯型もしばらく残るだろう。 「全く。とんだ害獣を購入したものだな……」  だが、それなりに躾けた。あれも今夜で身の程を知っただろう。次に目が覚めればアレクシスを見て盛大に怯えるはずだ。今後媚びを売ってくるようであれば鬱陶しいが、いつまでも鋭く睨みつけられるよりはマシだ。せいぜい怯えながら温情を乞えばいい。それでもまだ反抗してくるような愚か者であれば、今度はもっと残忍な方法で体を引き裂き、従順になるよう叩きのめしてやればいいだけのこと。 「旦那様、どちらに」 「すぐ戻る。先に水でも浴びてくる。あれに触り過ぎた」 「水だなんていけません、風邪を引いてしまいますよ。用意しますので少々お待ちください」  ここ数年で代替わりの準備を押し進め、父に傾倒していた使用人たちのほとんどは父の居住する別邸に追い出したが、数名だけ残した者がいる。  クレマンもその1人だ。親子三代でチェンバレー家に仕えている執事でもある彼は、昔から少々過保護だった。 「手袋もお預かりいたします」 「……ああ」  稀人の血と体臭が染み付いた手袋を抜き取り、クレマンに手渡す。体中にあれの臭いがまとわりついているようで気分が悪い。気遣いのできる執事に甘えることとし、全てを洗い流すためにアレクシスは浴室へと向かった。  * * *    幸せな思い出を、一瞬にして闇に塗り潰されたような夜だった。    ゆっくりと重いまぶたを下げる。ぼうっと目が覚めてから、一体どれほどの時間が経ったのか。この部屋にはリョウヤ1人だけで、数時間前までリョウヤをいたぶり尽くしていた男の姿はなかった。  枷はついたままだったが、いつのまにか背後で拘束されていた手は解かれている。   「、く、しょ……う」    新鮮な精をありったけ、ぶちまけられた。されるがまま、前から後ろから横から、様々な体勢でガクガクと揺さぶられ続けた。声もガラガラで、ものすごく喉が渇いている。水が飲みたくてたまらない。  少しでいいから休ませてほしいと懇願しても、聞いてもらえなかった。そればかりか激しさを増していく情交にいつしか限界を超え、もう痛いのか熱いのか寒いのかわからなくなってきた頃に、永遠に続くかと思われた交わりは終わった。  指の1本すらも動かせなくなったリョウヤは、気絶するように眠りにつき、次に目が覚めた時は、窓の外から青い朝の光が差し込んでくる時間帯だった。  意識を失ってから、4時間は経っている。 「ちく、しょ……ぅ」    もう何度口にしたかわからない悪態を、吐き出す。ぶるりと体が震えた、この有様では、たぶん熱でも出ているのだろう。それに酷く臭う。鼻の奥が酸っぱい。  見れば、シーツに薄黄色のどろどろした固形物が広がっていた。気絶しながら吐いてしまったようだ。あそこまで無茶苦茶されたのだから当然だろう。  喉に詰まって窒息しなくてよかったなと、どこか冷静な頭で思う。  そういえば、片目もうまく開けられない。顔の腫れが酷くなっているのだと思う。体の節々も鈍く痛んだが、なによりも散々擦られ続けた下肢が燃えるように熱かった。自由になった指先をそろりと動かせば、ぬたっとした湿りが指に絡んできた。どうなっているのかはわからないが、きっと痛ましいことになっているに違いない。確認する勇気は、なかった。  気持ちが悪い。そしてもったいないなと思った。  こんなにもふかふかとしたベッドなのに、洗いたてでいい匂いのしていたシーツは、汗と青臭い精と血と吐瀉物と胃液の臭いでどろどろのめちゃくちゃだ。本当にもったいない。    できることならナギサも、ここに寝かせてあげたかった。    犯されながら、途切れ途切れにナギサのとの思い出を辿った。ナギサからもらった『オマモリ』は、忌人狩りの奴らから逃げてる最中に預けてしまった。あの時は後悔したが、今になって思えば正しい判断だった。もしもあれが手元に残っていたら、きっとガマ蛙かあの鬼畜男に捨てられていただろう。  チリン、と鈴の鳴るオマモリは、リョウヤの命よりも大切なものだ。身に着けているだけで、ナギサがいつも傍にいてくれる気持ちになれる。できるだけ早く取りに行きたいが、そのためにはここから逃げ出さなければならない。  だが、それは現実的ではないだろう。たった一晩で嫌と言うほどわかった。あの男は、奴の跡継ぎを生まなければリョウヤを解放することはない。もしも逃走に失敗して、今よりももっと酷い環境に置かれてしまったら本末転倒だ。足の腱を切られ、最悪四肢を切り落とされる危険性もある。  そんな扱いを受ける忌人を、たくさん見てきた。  あの冷たい目、思い出すだけで背筋が震える──そんな状況下で、リョウヤがなすべきことは1つだけだ。 「ァ……あァ、あー……う、う……あ……ほ、けふ」  喉を押さえる。  散々叫ばされすぎて喉は擦り切れているようだが、まだ声は出る。大丈夫だ。    

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