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9.立ち上がる(2)

 いろいろなものが溢れてくる鼻をぐいっと擦り、痛む体を鞭打ちゆっくりと上半身を起こす。  下っ腹に力を入れた途端、どろりと様々なものがあふれ出したが視界に入れないようにして、懸命に手足を動かし、ベッドを軋ませながら降りた。  視界の隅に白濁とリョウヤの血が、シーツを茶色く染め上げているのだけは見えた。  素足を乗せた床がやけに冷たく感じられるのは、やはり熱が上がってきているからだろう。一歩進むごとにこみあげてくる吐き気を、唇を噛むことで胃に戻す。こんなの慣れっこだ。  だが、やはり疲弊していた。これ以上進めなくて、近くの椅子の背もたれに縋り付き、窓を眺める。鏡のように反射したそこには、頬を腫らし、口の横に吐瀉物の欠片をくっつけたリョウヤが映り込んでいた。  酷い有様だったが、これは自分だ、良夜だ。数年前と、1か月前と、1週間前と、一昨日と、昨日と、今日と、今も変わらない、自分自身だ。  息を深く吸い、止める。あんなろくでもない男に滅茶苦茶にされたからといってなんだというんだ。あんなの、ナギサが死んでしまった時の苦しみに比べれば大したことじゃない。傷ついてなんかない。襲い掛かってきた図体のでかい犬にちょっぴり噛まれたと思えばいいのだ。  大丈夫だ、大丈夫。こんなの大したことなんかじゃ、ない。   「だいじょうぶ、だ。俺は……良夜、だ」    ぽつりぽつりと、ガラスの鏡に映った自分に語り掛ける。窓の向こうでは、随分と薄くなっている月が沈む直前で踏ん張っていた。目を細めて薄い月を眺める。よみがえってきたのは、遠い日の記憶。 『良夜、おまえ、自分の名前の由来って覚えてる?』 『名前の、由来? うーん……覚えてないや』 『はは、そっか、良夜は小さかったからなぁ。僕たちがいた世界には、四季っていうのがあっただろ?』 『うん。四季は、よっつあった』 『春には、ひらひらと桜の花が舞って、夏には元気に蝉が鳴いて、冬には、ふっくらとした雪がうんと積もって……秋では葉っぱが色んな色に染まって、空がどんどん高くなって、月がいっとう美しく見えたんだ……そういう月が綺麗な夜のことを、"良夜"っていうんだ』 『ふうん。じゃあ、俺の名前ってまさかそっからきたの?』  2人で横たわりながらきょとんと首を傾げれば、兄は柔らかく微笑んだ。 『そうだよ。中秋の名月だ』 『チューシューの、メーゲツ……言いにくいや』 『ふふ。おまえの名前は、お父さまが付けてくださったんだよ。月のように、しゃんと背筋を伸ばして立てる子になるようにって。暗闇を照らして、迷子になっている人を導いてくれるような優しい子に育つようにって』 『……なれる、かなぁ』 『なれるよ、良夜なら』  優しい兄にそう言われたので、ちょっとだけ自信がついた。いつものように頭を撫でられる。嬉しくてふふと笑うと、ぎゅっと腕の中に抱かれた。その薄い胸に頬ずりすると、とくんとくんと、兄の心音が聞こえてきた。同じリズムで、とんとんと背を叩かれる。  リョウヤも兄の背に腕を回して、その細い体にしがみ付いた。あたたかい。 『明日も早く起きて、別の場所に移動しなきゃね。おやすみ、良夜』 『ねえ、にいちゃん』 『ん?』 『……どこにも、いかない?』  兄は、少しびっくりしたような顔をして。 『どうして?』 『だって、だって……』 『大丈夫だよ。行かないよ。ずっと、おまえの傍にいる』 『ほんとう……? ずっとずっと、俺のそばに、いてくれる?』 『うん、ずっとずっと、良夜の傍にいる……大丈夫だよ、だいじょうぶ』  リョウヤを抱きしめ、まぶたの上に優しいキスをくれた大好きなひと。リョウヤの全て。   「そうだよね、ナギサにいちゃん……おれは、ナギサの良夜だ……」    死に別れたあの日からずっと、兄の声が耳の奥で響いている。良夜、僕のことを──。  その瞬間、背筋が伸びた。ここから見える月の光が背に真っすぐに突き刺さり、しゃんと立てたみたいに。  あんなカス野郎にいい様に扱われて、はらはらと涙を零しているだけなんてまっぴらごめんだ。弱々しく震える日々を過ごすだけだなんて性に合わないし、おどおど相手の機嫌を伺い媚びへつらう真似だってしたくない。  現状をただ憂いていても前には進めないし、リョウヤの扱いも変わらない。弱気になっていた己を叱咤するために、しっかりしろと両腿を叩く。  もうすぐで、月も見えなくなってしまうのだから。 「……よし」  そうと決まれば話は早い。椅子にひっかけられていた薄いシーツを適当に下半身に巻き付ける。歩くたびに、とろとろと溢れたものが床を濡らすなんて気分が悪いし、掃除する人も大変だろう。それにこのシーツは使えそうだ。  体中に走る痛みを全力で無視して、閉め切られた扉に近づき、睨みつける。   「ね、……ぇ」  第一声は思っていたより掠れてしまったので、腹に力を入れてすうっと息を吸い、声を出す。 「──ねえ! 誰かいるんでしょ」  どんと扉を叩けば、向こう側でざわつく気配を感じた。この屋敷の使用人だろう。どうせリョウヤを外に出すなとか命じられて、従順に突っ立っているに違いない。 「聞いてる? おーい。話しかけてんだけど、ねえってばー!」    どんどんどんと叩き続けていると、「ど……どうかなさいましたか、奥様」と小さすぎる声が返ってきた。聞き取り辛いのでもっとちゃんと声を出してほしかったが、その一言で自分の立ち位置は知れた。リョウヤのような人間相手に、敬語を使いへりくだる金持ちの使用人など聞いたことがない。  彼らの本音がどうであろうと、自分はアレクシスの正式な妻となる人間なのだ。つまり彼らよりも、立場は上だ。 「あのさ、お湯浴びたいから浴室の場所教えてよ。あっ、あと、ベッドが血とかあいつの精液とか俺の吐いたやつでどろどろのぐっちゃぐちゃになっちゃってるから、替えてほしいんだ。あとは……」    ちょうどいいタイミングで腹がぐう~っと鳴った。忌人狩りの連中に捕まってからず、死なないように小さめのパンを与えられただけでほとんど飲み食いをしていない。それにほとんど吐き戻してしまったので、今のリョウヤの胃はすっからかんだ。   『良夜、これ食べていいよ』 『えっでもそれ、ナギサにいちゃんのぶん……』 『いいんだよ。おまえが元気でいてくれる方が、僕は幸せなんだ』    ナギサが笑って分けてくれたジャム付きのパンは、泣きたくなるほど甘くて美味しかった。だからリョウヤは1人になっても、どんな時でも食べて食べて食べていた。支えてくれた兄に報いるために。  ずんと、聳え立つ扉を高く見上げる。この屋敷はいわば要塞であり、敵の巣窟だ。一歩でも足を踏み出せば後戻りはできない。だからこそ、リョウヤは体力を付けなければいけないのだ。  両の足で立ち上がり、しっかりと前へ進むために。そのためには、まず。 「腹減ったんだけど、朝食ってある?」  そう。腹が減っては、なんとかである。      * * *  

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