27 / 152

16.ルディアナ・グラスノーヴァ(2)

 はらはらと決壊したそれを唇で拭う。  ルディアナはもとより、グラスノーヴァ侯爵には、稀人に跡継ぎを産ませることの承諾を得ていた。父であるバーナード・チェンバレーは若くして病気を患い、今ではほとんど寝たきりの、夢うつつの生き物だ。そんな前当主の生前の(死んではいないが)命令、いや願いには逆らえないのだと切々と語った。  体が麻痺した惨めな父のことをさっさと別邸に追いやったのは他でもないアレクシスだ。今の父は、アレクシスの決定に干渉はできない。させるつもりもない。  チェンバレー家にとって父はもう価値のない、不必要な存在なのだから。 「君には辛い思いをさせるな。僕は、君の泣き顔だけは見たくないんだ。だからもしも君が、こんな僕には幻滅したと、僕のそばにいることが耐えられないというのであれば……」 「いいえ、いいえ!」  アレクシスの言葉を遮ったルディアナは、気丈にも微笑んだ。するりと、腕にか細い指がまわってくる。 「どうか、それ以上はおっしゃらないで……」 「ルディ……」 「私、平気ですわ。アレクシス様とお父様のことは私が一番よく存じておりますもの。どうか気に病まないでください。私、きっと我が子のように可愛がると思いますわ……だって、他でもない貴方の子なんですもの」  その目に映るのは、悲しみに耐えしのぶ奥ゆかしさ──やはり自分の目に狂いはなかったようだと、内心でほくそ笑む。ルディアナからすれば、アレクシスはよっぽど親思いの息子に見えているに違いない。ルディアナは母性溢れる女だ、あの稀人との子を実子として育て、嫌な顔1つせず導く賢母となるだろう。  腹を短剣を突き立て、いるかもしれない我が子を盾にし脅しにかかるような性悪な生き物とは違う。  ましてや、アレクシスの母親とも。 「そんなことを、言ってくれるのかい? 僕は、君にぶたれることも覚悟していたんだが……」 「まぁ、アレクシス様を傷つけるだなんて恐ろしいこと、私にできるとお思いですの?」  くす、と泣き笑いを浮かべたルディアナに天を仰ぐ。この美しい微笑みを、血が出るほど噛み付いてきた稀人に見せてやりたいくらいだ。あれは常に眦を吊り上げていて、本当に、笑わない。 「全く君という人は……敵わないな。聞いてくれ、ルディアナ。今となっては恥ずべき過去だが、僕は数々の女性と関係を持ってきた。自分の中にある空虚を埋めるためだけに」 「……ええ、存じておりますわ」  アレクシスの女性遍歴は有名で、ルディアナも知るところだ。というよりも、あえて隠しはしなかった。そうすることで、これから口にするセリフにより重みが増す。   「だが今ならはっきりと言える。僕は本物の恋を知らなかったんだ──君と出会うまでは」  耳朶に唇をよせ、甘さたっぷりにささやく。   「君は、これまで関わってきたどの令嬢とも違う。しとやかでしなやかで常に他者に優しくて……君が下賤な忌人にも手を差し伸べている姿を見た時は、心の底から驚いたよ」 「当たり前のことですわ。お屋敷にいるみんなは家族みたいなものですもの」 「本当に、君の深い優しさには感服するばかりだな」  グラスノーヴァ侯爵は典型的な差別主義者であり、グラスノーヴァ邸にも忌人の奴隷はいる。しかしルディアナはそんな忌人たちに憐憫の情を示し、父から罰を受けた彼らを自ら看病し、仕事を手伝うこともあるくらいだ。お嬢様お嬢様と、忌人たちに群がられる様はさながら宗教画だ。そんなルディアナだ、アレクシスが稀人に子を産ませることも、相手に対価として賃金を支払う上での関係であると説明している。 「だがまあ……お転婆なところは少々困るが」 「まあ。私、乗馬だって得意ですのよ? 昔から男の子に混ざって遊んでいましたもの。そんなに男勝りではお嫁に行けないぞと、お父さまやお母さまにもよく叱られていましたわ」  こつんと額を合わせて、くすくすと互いに含み笑う。アレクシスとルディアナの逢瀬を見守っているお付きの侍女たちも同意見なのだろう。周囲にも苦笑が伝染していく。  みながみな、この愛らしい主人が可愛くて仕方がないらしい。 「……僕たちの出会いを、覚えているか? 君は庭園の端で靴を脱ぎ、美しい月の下で踊っていた」 「いやだわ、忘れてくださいませ。私ったらお酒に酔っていたんですもの。恥ずかしいわ」  晩餐会場にて、ルディアナの近くにカフスを落とし、探しに行ったのが始まりだった。強い酒に酔っていたルディアナは、靴ずれをおこしたため素足になり、庭園の一角で1人かろやかにステップを踏んでいた。 『すまない、ここにカフスが落ちてこなかったか?』  アレクシスに気付いたルディアナは、近くに落ちていたカフスに気付き、手渡してきた。 『これは、貴方のものですの……?』 『ああ、そうだが……君、その足はどうしたんだ? 素足じゃないか』 『え……あっ、きゃあ! い、嫌だわ私ったら、これはその……み、見ないでくださいませ』  ルディアナが靴ずれをおこしていたことには最初から気づいていたし、彼女の後をつけ、バルコニーの上からカフスを落としたのもわざとだ。ルディアナに正攻法で攻めて撃沈していった男たちは多い。また愛人からの情報で、ルディアナがその頃、上流階級の間で流行っているロマンス小説にのめり込んでいることも知っていた。 『怪我をしているじゃないか、大変だ』 『い、いえ、結構で……あっ……なにを』 『手当をしよう。捕まっていろ』 『そ、そんな、やめて……降ろしてくださいっ』 『こら暴れるな、落ちるだろう! 淑女というのはみなそうなのか?』 『なっ、し、失礼ね、私の馬の方がもっと優しく運んでくれます!』 『……僕を馬と同じにしないでくれないか、お転婆なレディ。晩餐会に出席するのは初めてか?』 『ま、まあ! 失礼な殿方よりも、馬の方がまだ可愛げがありますわ!』  見知らぬ男にこんなことをされたのは初めてだったのだろう、大混乱に陥りばたばたと暴れるルディアナを横抱きに抱え上げそのまま別室へと連れて行き、跪いて擦れた足の手当をした。  はたして、美しい月の下での運命的な出会いを演出する作戦はうまくいった。数か月後の晩餐会で、ルディアナは明らかにそわそわと、アレクシスの姿を探していた。 『これはこれは、いつぞやのお転婆なお嬢さん。君が噂に聞いていたミス・ルディアナだったとは驚いたよ。怪我の具合はどうだ?』 『ええ、おかげ様で。突然抱き上げられて驚いたおかげか、もうすっかりよくなりました』 『棘のある言い方だな』 『刺していますもの』 『はは、やっぱり君は面白い……だが治ってよかった。どうかな、リハビリがてら僕と一曲踊ってくれないか?』 『……でも、また靴擦れをおこしてしまうかもしれません』 『ならばまた抱き上げてみせよう。今度は月の下ではなく、皆の前で』  その夜からルディアナは、アレクシスに転がり落ちていった。 「初めて君を見た時は、月から舞い降りた妖精かと思った。あんなところで1人で踊っていたら、あまりの美しさに月に連れ去られてしまうかもしれないと。だからつい……君を攫ってしまった」    ルディアナの髪を梳くように撫でる。いつもよりもふんわりとしていて手触りがよく、香りの質もいい。嗅ぎ覚えのない匂いなのでアレクシスがプレゼントしたものではない。 「あの時、僕のカフスを拾ってくれたのが君ではなかったら、僕の心は闇に覆われたままだっただろう。僕の中の空虚は、今は君への愛でいっぱいだ……君のような恋人を持てた僕は世界一の幸せ者だな」 「アレクシス様……」  ルディアナが身にまとっているということは、これから流行る香りのはずだ。  金色の髪に鼻を埋め、華やかな香りを鼻孔に叩き込む。後で輸入リストに付け加えるために。

ともだちにシェアしよう!