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19.冷たい雨(2)

「代わりは何匹でもいる」 「……ひき、って」 「いいか、何度も言うが、貴様は僕が自由に扱うことのできる所有物だ。僕は僕の望むがままにおまえを罰することだってできる。貴様の背に鞭を打ち、その爪を剥ぎ、ありとあらゆる苦痛を与えながら命を奪うことも」  掴んだ細い肩は小刻みに揺れていた。怯えか寒さか、それとも怒りか。 「僕に仕置きを受けてまで、逆らい続けたいのか……?」 「……すればいい!」  冷たく目を細め、これまで以上に低く告げてやったというのに、炯々たる眼差しに射抜かれて目を見張る。カシャンと、手枷の金属音が雨の音に呑まれて消え落ちた。 「──まだ言うか、力のないガキが」 「俺はガキじゃねーし、あんたのものでもない」 「後先考えず突っ込めばボコボコにされるのがオチだ」 「じゃあ力のあるあんたがなんとしろよ……ッ」 「助けたところで僕になんの利益がある。僕は忌人を保護し、名声を高めようとする慈善活動家でもなんでもないっ」 「そーかよ。ならあんたは一生そこで止まってろ!」    不覚にも、言い返そうとしていた罵声が喉の奥で詰まった。稀人は隙をついてアレクシスの腕から逃れ、数歩走ったところでぐるんと振り返った。  一瞬、泣いているのかと思った。 「代わりなんかいない。忌人にも、稀人にも、俺にも──あんたにだってな!」  その頬を伝う雫は、ただの雨だった。稀人は今度こそ振り返らずに、勢いよく樹木の下から飛び出して行ってしまった。制止もできずに見送ってしまったのは、稀人の行動にあっけに取られてしたからだ。  あれの言葉に貫かれ、地面から足が剥がれなくなったからではない──決して。 「あの、旦那様ぁ」 「……なんだ」 「馬車、無事に進めそうなんですけど……その……い、いいんですか? 追いかけなくて」 「放っておけ」 「ですが、奥様が妙なことをすれば、旦那様にも迷惑がかかってしまいますよぅ」 「あんなものどうとでもなる。バートンとて殺しはしないだろう」  空が先ほどよりも暗い。このままだと雷雨が来そうだ。  長くチェンバレー家の馬車を担当している御者のユリエットは不安そうな顔をしていたが、アレクシスが稀人を購入したという噂はもう出回っている。  また、リョウヤに嵌めた枷にはチェンバレー家の紋章が刻まれている。  奴隷らは各々の家の財物だ。奴隷たちを主人が破損したところで見過ごされるが、他家の奴隷を破損することは犯罪である。流石のバートンであってもそこは理解しているはずだ。  もちろん殺さない程度には暴行されるかもしれないが、あれはまだ妊娠していないので流産する危険もない。つまり、後を追いかける理由も道理もない。  ふん、と鼻を鳴らして歩きだし、ようやく泥から抜け出せた馬車の、雨の当たらない窓際に寄りかかる。  稀人の肩を掴んでいた手のひらの妙な感触が、ひやりとした風に冷えていく。  なんだ貴様はと、響き渡る怒声。どうやら稀人は負けじと言い返しているようだ、力強い声が雨空に響く。  次いで、ひゅんっと勢いよく振りかぶられた杖で殴打される音。目を細めて遠くを見れば、霧の隙間から、倒れ伏した忌人の少年に覆いかぶさっていた稀人が、バートンに掴みかかり、毛深い腕に噛み付いたのが見えた。  やはり噛み癖の悪い獣だ。  引きはがせ! と厳しく命じられた忌人たちが、慌てて稀人の髪を掴んで引きずり下ろしにかかる。バートンの杖が稀人の頬を打ち据え、稀人がもんどりを打った。  助けるつもりはさらさらない。ただただ、遠くの惨状を冷めた瞳で眺め続ける。  あれは奴が望んだことだ。同種の者たちに地面に押さえつけられる稀人は惨めの一言に尽きた。そう、思い知ればいいのだ。どれほど果敢に立ち向かおうとしても、稀人に生まれた時点で全て無意味であることを。  価値のないものは価値のないまま死んでいく。それがこの世の不変であり、道理だ。  足元の水たまりに、雨粒が落ちてくる音が強くなった。ぽちゃぽちゃと、叩くような波紋が広がる水面に視線を落とす。  代わりなんていないと叫んだあれの顔が浮かびあがったのは一瞬で、すぐに激しい波紋に打ち消された。手を開く。  手袋越しに稀人の肌に触れた手のひらは、いつまでも熱を持ったまま。  

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