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21.マティアス・フランゲル(2)

 まさか彼も、チェンバレー家当主の執務室で、こんな乱暴な音を聞くはめになるとは思ってもいなかったのだろう。ドアノブよりももっともっと下の位置から、扉を破壊されてしまいそうなほど大きな音は2回続いた。ノックは3回だということはきっちり覚えているようだが、それは手でする場合であって扉を蹴り飛ばしていい回数ではない。   「ねえアレク、もう帰ってるんでしょ! 開けてよ、両手塞がってんだって」    扉の向こう側から聞こえてきた高めの声に戸惑ったのは、マティアスだけだ。   「……誰? 親戚の子でも遊びにきてるのかな?」 「おーい、開けてってば! はーやーくっ」 「無視しろ、無視だ」 「いやいや、それは駄目だろ~」  そう、アレクシスの目下の悩みの種はあの声の主だった。アレクシスの静止も聞かず、マティアスがドアノブを回した。わずかに開いた隙間に体を強引にねじ込ませ、ぐいっと侵入してきた小柄な生き物が、吊り目がちな黒い瞳をきょとんと丸くさせてマティアスを見上げた。 「わ、びっくりした。あんた誰?」 「え」    第一声の無礼さと目の前の存在の異質さに、マティアスは目に見えて狼狽した。そして視線の的となっている当の本人はというと、事態が飲み込めていないマティアスからさっさと視線を外し、アレクシスに声をかけてきた。 「あ、アレクおかえり。この人誰?」 「……」 「おーい、無視しないでよ。誰? ねえ誰?」 「友人だ」 「え、友人?」    細い両腕いっぱいにぶ厚い本を抱えたまま登場したリョウヤは、紹介された見知らぬ人間を不思議そうに見上げながら、一言。 「アレクってそういうのいたんだ。友達ゼロ人って感じなのに意外」    ぴしりと、額に青筋が立つ。 「……それは、僕に友人が1人もいないという意味に聞こえるが」 「あ、うん、そういう意味で言ってる」  リョウヤの失礼極まりない発言に広がる、数秒の静寂。しかし、冷え切った空気にひるむリョウヤではない。 「どうも」 「は、え……あ…………ど、どうも?」  アレクシスは、適当な挨拶をぶちかました黒髪黒目の生き物に、とりあえずの挨拶を返した友人を眺めた。  ルディアナの次に、本日のリョウヤの犠牲者となる、友を。 「え、えっと……君は、誰、かな……?」 「俺は『坂来留川 良夜』。よろしく」  やけに胸を張らせ、誇らしげにリョウヤが答えた。もうお馴染みとなってしまった自己紹介だが、奴は自分の名前がよっぽどお気に入りらしい。   「は? だ、り、ぅ」 「サカクルガワリョウヤ」 「、い、ょ、……」 「……リョウヤ」 「、り……ょ、い……ゥ」  流石のマティアスも慣れない発音を舌で転がすのは難しそうだ。リョウヤが操る『ニホンゴ』は不思議な言語で、そもそも発音自体があまりにも馴染みが無さすぎて、聞き取ることも難しい。  正確に発語するためには舌がもう1枚必要だ。  アレクシスは早々に聞き取ることを諦めたが、マティアスもだいぶ苦戦している。大変なことが伝わったのか、リョウヤがふ、と短い息を吐いた。  あれは諦めのため息だ。 「リョウでいいよ。で、あんたの名前は?」 「え?」 「名前。なんていうのか聞いてるんだけど」 「あーっと……」  ちらっと、マティアスにどうすればいい? と眼差しで訴えられるが、リョウヤが奴に口を開かせる方が早かった。   「あのさ、今あんたが相手にしてるのは俺だと思うんだけど。まさか人には聞いといて自分は名乗らないとかないよな。その口は飾りなの?」 「あっ、そ……うだね。私はマティアスだよ。マティアス・フランゲルだ」  これまで自己紹介を強制されたことなどなかっただろうマティアスは、彼にしては珍しくしどろもどろになりながらも自己紹介を始めた。   「マティアスって呼んでいい?」 「あー、うん……」 「そ。じゃあマティアス、悪いんだけどそこどいてくんない? 通れねーからさ」 「あ、ああ……」 「ありがと」    見えざる圧に押されるように、マティアスがリョウヤの前から数歩どいた。アレクシスはさっさと目の前を通り過ぎようとしたリョウヤを「おい」と引き留めた。  しかしリョウヤは振り向かない。 「待て」  今度は強く言えば、ようやく奴は足を止めた。   「もしかして、今俺のこと呼んだ?」 「貴様以外の誰がいる」 「いっぱいいるでしょ。だって俺はおい、でもおまえ、でも貴様、でも待て、でもなくてリョウヤだもん。リョウヤ。何回教えれば言えるようになんの?これからは毎日あんたの耳元で囁いてやろうか」  口の減らない稀人などもう慣れたもので、もう眩暈さえも覚えない。ただ憎々しさはつのった。 「一応これは僕の友人だ。それ相応の態度というものがあるだろう」 「相応の態度ってなに? 別に失礼なことは言ってないと思うんだけど」  こてんと首を傾げたリョウヤは、本気でアレクシスの苛立ちの原因がわかっていなさそうだ。どうやったらここまでふてぶてしくなれるのか、心の底から疑問である。  1週間前のあの日、リョウヤは1人で部屋を出ていった。激しく怒り狂うアレクシスを残して。  話の最中にグラスを落としたメイドと、恰幅のいい小太りのメイドが真っ先に後を追いかけ、そのほか何名かが続いた。  そしてリョウヤは宣言通りさっさと地下へと降り、自ら牢獄に入った。この館は祖父の代で、没落貴族が売りに出した屋敷を買い取り大幅に改築したものだ。古さはどこにも見当たらないが、地下には当時の名残で牢屋がある。  地下牢が一体何に使われていたのかは不明だが、石畳に囲われたそこは常に薄暗く、滴り落ちる水滴の音だけがやけに響き、石壁に染み付いたような手跡もある。  幼い頃はその薄気味の悪さに降りるのを極力避けていたものだ。もちろん夜は凍えてしまいそうなほど寒く、微かな月明かりが天井の隙間から零れるくらいでほとんど暗闇、かつ雨音さえ聞こえないほどの、無音だ。  燭台が無ければ、目の前にあるはずの手さえも見えない。  アレクシスの命令通り燭台は全て外された。人間は五感を奪われると、3日ほどで精神の均衡が狂うらしい。リョウヤを地下牢に閉じ込めてから2日後、朝になって地下を訪れると、リョウヤは鉄格子の奥の冷たい独房の隅で、石のように丸まり横たわっていた。顔色は、かなり悪い。こんな環境下で丸2日間飲まず食わずだったのだ。さぞや恐怖と絶望に打ちひしがれているだろうと思ったのだ、が。  起きろと鉄格子を蹴り飛ばすと、リョウヤはすぐに目を覚ました。  そしてのろのろと顔を上げて上半身を起こすと、ふあぁ、と腕を伸ばし、目を擦りながらこう言った。 『あれ、もう朝? あー……よく寝た。おはよ、アレク。あれ、珍しいね。俺より早く起きんの』  ──正気かと疑ったアレクシスを、誰も責められないだろう。

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