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23.痛む手のひら(1)
* * *
窓枠に座り、テーブルに積み重なっている別の本へと手を伸ばす。
「いて……っ、て」
ズキンと、手のひらが刺すように痛んでばさりと本が落ちた。急いで冷たいテーブルに手のひらを押し付けて痛みを分散させ、ふうー……と細い息を吐き出す。こうしているとずいぶんとマシになるのだ。
たった一か所の火傷だというのに、なかなか痛みが引いてくれない。メイドが用意してくれた薬は頻繁に塗っているが、また塗らないと。
手のひらをそうっと確認すれば、真ん中が丸くて白い上に水ぶくれもできていた。
「痛いの痛いのとんでけ……とんでけ。いたいの、とんでけ」
耳の奥に残る兄の声に耳を澄まして、手のひらの痛みを打ち消すことに集中する。すると、ズキズキとした痛みがすぅっと引いて行くような気がした。額に流れた冷や汗を拭い、ふうと細い息を吐き出す。
『グズグズするな。主人を待たせる気か?』
アレクシスの手は、奪うことになれた手だ。そして傷1つなくなめらかだ。かさかさに荒れて浅黒くなったリョウヤの手とは違い、なんの不自由もなく生きてきた人間の手に見えた。
実際、彼の生活は何から何までリョウヤが暮らしてきた環境とは違っていた。
リョウヤに対する扱いは最低最悪だが、アレクシスは立ち振る舞いの全てが完璧だった。まだ21歳という若さのはずなのに、嫌味ったらしいバートンと対峙していた時の彼の微笑もだいぶ様になっていた。ましてやルディアナに甘い愛をささやいていた時の彼も、女性の夢をそのまま具現化したような姿に見えた。
だというのに、リョウヤの側にいる時の彼はすぐに激高して手を上げてくる。冷静そうに見えて全く冷静ではないし、感情を押し殺せていそうであまり押し殺せていない。
バランスが悪いように見える。行動と思考が、あまりにもズレているような。
しかし、そのバランスの悪さに違和感は覚えているけれども、違和感の正体がわからない。
どうしてあの人は、いつも満たされないような顔をしているんだろう。
しばらくぼうっと物思いにふけっていると、コンコンコンと軽快なノック音が聞こえた。視線を向ければ、つい先ほど顔を合わせたばかりのアレクシスの友人とかいう男が、にゅっと顔を出してきた。
「やあ、集中しているところごめんね」
「……なんか用? フラフラ家の人」
「フランゲルね。アレクシスからの伝言だよ。今すぐ来てほしいって」
顔を上げる。時計に目を向ければ昼を過ぎていた。小窓から差し込む太陽の光が、マティアスの白い肌に透けて眩しかった。自分の黄ばんだ、血色の悪い皮膚とはまるで違うその色。
「なんで?」
「なんか話したいことがあるみたいだよ」
「おかしくない? こんな真昼間に」
しかも改まって「話がある」だなんて。夜に組み敷かれる以外で、彼の方から歩み寄ってくることなどほとんどないと言うのに。
「うーん、私も詳しくは聞いてないんだけど、大事な話らしいよ? 昼食でも食べながらゆっくり話そうだって」
「昼食……?」
「そ。美味しいデザートも用意してるみたい。私も坊やともっと仲良くなりたいな、一緒にお酒でも飲みながらさ」
ますます怪しいと訝しむ。基本的にアレクシスはリョウヤと食事もとりたがらないのに。
「どうしたんだい? あんまり待たせると怒られるよ、あいつは短気だからね」
「それは知ってる」
だが、呼ばれているのならば無視はできない。
「わかった──行くよ」
とりあえず、マティアスの後を追いかけて部屋を出る。
「……ねえ、なんであんたが呼びにきたの」
「忙しいんだってさ。いやぁ、当主様ってやつは大変だねぇ」
「マティアスは違うの? よくわかんねーけどすごいんだろ、フラフラ家って」
「フランゲルね……ただ歴史が長いだけさ。それに私は次男だからね、後を継ぐ気はないし、気ままなものさ」
リョウヤと歩幅を合わせてくれないマティアスの広い背をとてとてと追う。艶のある金色の長い髪が左右に揺れている。真っ黒なリョウヤとは真逆の色だ。
歩きながら、ふと周囲から向けられる妙な視線に気付いた。
なんだかやけに注目されている気がする。短剣を隠し持ちアレクシスを脅したあの日から、使用人たちはまた何かやらかすのではとリョウヤに目を光らせているのだが、それとはまた別の視線を感じるのだ。
マティアスが左に曲がった。彼の向かう先はダイニングルームではない──そのことに気付いて、ぞわっと背筋が薄ら寒くなる。
嫌な予感が、した。
「どこ、行くの?」
「ん? どこって、アレクシスのいる部屋だよ」
だからどこだよと詰め寄りたくなる気持ちを、なんとか抑えた。廊下の奥で、頭を下げたメイドたちがずらっと並んでいるのが見えたが、その中に1人だけ、こちらを伺うように顔を半分上げているメイドがいた。キャシーだ。
相変わらず青ざめた顔のキャシーは、唇をぐっと一文字に引き結ぶと、何かを訴えるように前に出てきた。行く手を阻まれたマティアスの足がぴたりと止まる。
「なにか用かな? お嬢さん」
「あ……あの、そ、の……」
体をぐっと折り曲げて身を屈めたマティアスに、キャシーはびくりと肩を震わせたが、引く気配はない。ちらりとリョウヤを見ては何かを言おうとして、マティアスに怯えて噤むを繰り返している。
周囲のメイドたちも何事かと目を見開いていた。キャシーのこれは、かなり突発的な行動だったに違いない。
「マ、マティアス様……あの、お、奥様、は……」
「……うーん、あんまり馬鹿なことをすると、君のこわ~いご主人様に言い付けちゃうよ? 歯向かう子に、あいつは容赦しないからねぇ」
ぴりりと張り詰める空気。まずい、今のは明らかに脅しだ。花瓶の一件があってから、キャシーはアレクシスに冷遇されるリョウヤを常に気にかけてくれていた。リョウヤが地下牢へと閉じ込められた時だって、おどおど周囲を気にしつつ、隠し持ってきた毛布を渡してくれたのだから。
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