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28.唇の味(1)

 * * *    視察に訪れた店を背に馬車へ乗り込もうとした瞬間、「あら、薄情者のチェンバレー様ではなくて?」と声を掛けられた。舌ったらずなその音色は愛人の1人だった。  高い位置で結われた揺れる紫色の巻き毛。洗練された手の動き、身に着けているものから判断すれば見た目は伯爵夫人、しかし中身は、そこらへんの下級貴族や地方豪族であればその手に触れるのも叶わないような、少し気難しい高級娼婦。  彼女との夢のような一夜を買うために、何人もの男が身を滅ぼしたと聞く。  偶然を装って入るが、どうやらアレクシスの馬車を見かけて追いかけてきたらしい。   「やあ、久しぶりだなベラ」 「ええ、本当にお久しぶりですこと。しばらく見ない間にまた素敵になられたのでは?」  弧を描いた妖艶な唇に苦笑する。わざとらしく嫌味な言い方、やはり機嫌を損ねていたようだ。 「相変わらず君も美しいな。その夜明け色のドレスも似合っているよ」  ベラという名は、本人曰くベラドンナからきているらしい。その名の通り彼女は美しすぎる毒の女だった。そんな毒の女を最後に抱いたのはいつだったか、リョウヤのことでごたごたしていてなかなか連絡ができなかった。  普段であれば、「会いたかったよ、美しいベラ」の一言でも囁いて抱きしめているところだが、ここは往来の場だ。人通りが少ないとはいえ、一応ルディアナという婚約者のいる身だ、控える。 「まあ酷い、全員に同じことを言っているくせに」 「まさか。君の前だと本音が出るんだ」 「私も本音が出ますわ。ここ最近、全く顔を出してくれなかったじゃないの。せっかく毎晩濡らしていたのに、貴方が来てくださらないせいですぐに乾いてしまったわ……この薄情者」  かちんと、ベラが噛んでくるふりをした。ちらついたのは、マティアスが舐めていたリョウヤの白い歯。もう治ったはずの唇の噛み痕が、ふと疼いた気がした。   「……そんなこと悲しいことを言わないでくれ。君を愛する伯爵が、君に新しい家を買い与えたという話を聞いたから控えていたんだ」 「まあそんなこと? 与えられた家なんて、いちいち全部覚えてないわよ」 「さすがは人気者だな」 「それに、あんな髭面の豚じゃあ濡れるものも濡れないわ」  胸の開いたドレスを着こんだベラはむっと唇を尖らせ、アレクシス腕をするりと撫でてきた。仕方がないので共に馬車へと乗り込むと、腕を伸ばして首に絡めてきた。まだカーテンが開いているのでそっと止める。 「許してくれ、忙しかったんだ……君も知っているだろう? 記事にも取り上げられた通りなんだ」 「キスの1つもしないで済むと思って? してくれなきゃ、ゆるしてあげないんだから……」    薄く開いた赤い唇が近づいてくる。そんなことを言われては奪わないわけにはいかない。ベラを見つめながら両横のカーテンを閉め、くびれた腰を抱く。簡易的な、薄ら寒い口づけなど望んでいるわけではないことはわかっている。躊躇することなく、差し出された舌を絡め取った。   「ん……ふ」  キスをしながら手袋を脱ぐ。甘さと気だるさが混ざった乱れた声は、明らかな情欲に満ちていた。艶めかしく絡んできたのは腕と舌だけではない。張りのある胸を押し付けられ、細い脚が大胆にも腿の上に乗せられる。  慣れた相手だ、互いに簡単に熱を煽られる。 「まいったな、すぐに家に帰ろうと思っていたのに」 「私と、遊びたくなったでしょう?」  くすくすと、合わさった唇から洩れる吐息のくすぐったさ。 「それとも、可愛い可愛い婚約者の相手で手一杯なのかしら。まだ手を出していないんですってね?」  静かに嫉妬する演技もお手の物だ。アレクシスは肩を竦めた。 「君までそんなことを言わないでくれ。処女は面倒なだけだ」  本音だった。娼館を訪れた際に指名したのも、経験の乏しい生娘ではなく全て手練れのみだ。時折経営者から、新入りがいるので破瓜の相手をしてほしいと頼まれることも、当の本人から貴方に捧げたいのと強請られることもあったが、全て断っていた。  なにが楽しくて、なんの見返りもない相手と金を払ってまで寝なければならないのか。特に処女は初めての相手に恋情を抱く傾向にある。チェンバレー家の名誉のためやれと言われれば丁寧に抱くが、そんなつもりはないというのに下手に執着されるのも厄介だ。 「相変わらず酷い男だこと」 「君だから言えるんだ、ベラ」

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