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30.消せない光(1)
自分の唾を飲み込む音が、やけに響いて聞こえた。
* * *
「おい稀人、起きろ」
リョウヤの顔を覗き込む。しかし、目線は合うが視線が合わない。
稀人は、今まで見たことがないほどに虚ろな目をしていた。
「聞こえなかったのか。起きろ」
やはり反応はない。泣かせるという第一目標は達成できなかったが、これはかなり壊れたらしい。
本来であれば、惨めな稀人の姿にもっと爽快感を感じていたはずだ。しかし、想像していたような喜びはあまり湧き上がってこなかった。初めて自覚したが、どうやら自分はリョウヤを使って他人にいい思いをさせるのは癪らしい。
今日一日中感じていた違和感の正体は、これだろう。
「悦んで抱かれていたようだな。あれだけ苦しんでいたというのに、卑猥な言葉を口にし、自ら腰を振って咥えこむだなんて……犬畜生は貴様だろうが。浅ましいな」
心の底から吐き捨てる。
「マティアスも、随分と貴様を気に入ったらしいからな、近いうちにまた相手をしてやれ。まあ僕には、おまえのような生き物を気に入る輩の思考回路は理解できんがな」
そうはいいつつも、もうこれを性接待として使用することはないだろう。チェンバレー家の権威が、この稀人如きで支えられているなどとは思われたくない。マティアスにだってもう二度と、二度と貸してやるものか。
「あい、かわらず……こういう時は、ぺらぺら、喋るね。うるさいよ……」
驚いた。まさかこの状態で返事が返ってくるとは。だが、言葉に詰まるなどプライドが許さなかった。
「ほう、生きてたか」
「死んで、ねーし……」
けほ、と、惨めに咳き込む稀人。零れたのは唾液に混じったマティアスの白いもの。苛立ちがぶり返す。
「いいか、よく聞け。1つだけ忠告しておこう。いくら奔放な性に目覚めたからといって、僕の使用人を咥え込んで懐柔しようだなんて考えるなよ。チェンバレー家の使用人が稀人を抱くだなんて、末代までの恥だからな」
「……だ、く……?」
ゆっくりと瞬いた瞳は、やはり濡れてもいない。
「ちがう、だろ。これは……強姦、だ……」
「強姦? はっ、人聞きの悪いことを……それは相手が同じ生き物である場合だろう? 僕たちの行為はただの自慰だ。人の形をした人形を使った、な」
「にん、ぎょ……ぅ……」
「そうだ、いい加減自覚しろ。おまえは人形だ」
だからこれ以上、僕の心をかき乱すな。首の座らない赤子のようだったリョウヤの頭部の揺れが、突然、ぴたりと止まった。
「──ちがう。俺は人形じゃない。人間だ」
ぞくりと、した。
「……人形だろうが。壊れるまで使われた玩具がよう吠える」
「俺は壊れない」
すうっとリョウヤが息を吸い込んだ。薄い胸が膨らむ。アレクシスは見た。淀んでいたリョウヤの目が大きく見開かれ、その漆黒に細い光が走ったのを。
「壊れてない。誰に何をされても……これから、何をされようとも」
消えかけていた生気と理性が、灯り始めたのを。
「俺がにんぎょうなら、あんたはなんだって言うんだよ。そうやってすかしたツラで、ひとのことを見下して……人を、暴力で追い詰めることで、全部に勝った気になって……恥? それはあんただろ」
リョウヤは今、裸だ。何1つとして身にまとっていない。だというのに、この圧迫感はなんだ。
「人形なのは……人で無しはあんたの方だろうが、アレク」
ありのままの稀人に射抜かれる。口の中が、酷く渇いた。
痛いと喚いていたくせに、苦しくて叫んでいたくせに、痴呆のように快楽によがり狂っていたくせに。堕とされてもなお光を失わない愚かな少年が、今この瞬間、大きな剣を抱えた剣士のように見えた。
衝動のように、膨れ上がったこの気持ちを何と例えればいい。憤怒に近い畏れとも言えた。
なぜ、これほどまでにリョウヤはリョウヤのままなのだろう。どれほどの感情をこいつにぶつけようと、それは寸分の狂いもなく、ぶつけた時以上の威力となってアレクシスに跳ね返ってくる。
受け止めきれないのは、アレクシスの方に器がないからか──この、僕が? まさか僕の方が劣っているというのか、この男を咥え込むしか能のない薄汚い稀人よりも。
このままではいつか、この稀人に心までもを見透かされてしまうかもしれない。
そうなったらどうすればいい。僕は……僕は。
『貴方は、冷たい子ね』
「……うるさい」
『離れて、出て行ってちょうだい。ああ嫌だわ、何から何まで父親とそっくりだこと。その赤い目、まるで血みたいよ……気色が悪いわね』
「うるさい」
『貴方を息子だと思ったことなんて一度もないわ。貴方、本当に私の子なのかしら? 本当は、あの薄汚い稀人の──……』
煩わしい過去の記憶が蘇ってくる。アレクシスの全てを否定した、あの役に立たない無価値な女。母親としての役割をなに1つとして果たさず身勝手に死んでいったあの女は、アレクシスのことをほとんど名前で呼ばなかった。物心ついた頃にはそうだった。
一度だけ呼ばれたこともあったが、それは「呼んでもらえた」とは程遠く。
『ああもう、いい加減にして。ねえそこの貴方、外に放り投げてきてくださる? え? アレクよアレク』
憎悪に歪んだ母親の冷たい目が、自分のことを『アレク』と呼ぶ、目の前の少年と重なった。
目もくらむような悪寒が走る。早く早く、リョウヤの目に宿る光を消さなければ。どうすれば消せる、そうだ、明かりを……火を消すには水が必要だ。ちょうど、流させてやりたいと思っていたところだ。
「──うるさい!」
「ぁっ……」
リョウヤの細い首を押しつぶすように、締め上げる。
「泣け、泣いて僕に許しを乞え。口の減らない喉を、へし折ることなど簡単なんだぞ……!」
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