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34.三歩進んで忘れる鶏(2)

「いやぁ、愛しの奥様に振り回されてるねえ、旦那様?」 「……うるさい」  アレクシスはリョウヤに目もくれずにさっさと行ってしまった。じゃれ合いの矛先を変えたマティアスがアレクシスに追いかけ、アレクシスの背をとんとん叩きながら並んで歩き始めた。  ニヤニヤしながら何かを囁いては、強く睨まれている。  勢いを削がれた言葉は宙ぶらりんのままでもやっとしたが、しょうがないかと追いかける。 「坊や以外の稀人ちゃんと会えるなんて楽しみだなぁ。ワクワクしすぎて睡眠不足だよ」 「まさか、こいつに情報を教えたのもそのためか?」 「さあねぇ」    広い廊下を歩きながら、前の会話を盗み聞きする。  そういえば意識が遠のきかけていた時、マティアスはリョウヤの兄の話に食いついて、「私も欲しい」とかなんとか騒いでいた気がする。  はぐらかしてはいるが、マティアスの目当ては十中八九リョウヤ以外の稀人だろう。  だんだんと心配になってきた。なにしろマティアスは性格の悪い変態であり、かつ残忍な男だ。  ここにいる稀人は手厚く保護されているとは聞いているが、自分のせいで無関係の誰かが酷い目に合うのだけは避けたい。何かあったら自分が守ってあげないと。  ふと、どこからか金属音が聞こえた。カチカチカチカチと、わりと近くで響いているようだ。なんだ? と周囲を見渡してみるが、何もない。  気のせいか、と再び歩き出そうとしたのだが、音の発生源が目線の下であることに気付いて再び足を止める。  下を向くと、自分の腕が小刻みに震えていた。  そうか、鳴っていたのは手枷か。  寒いのかな、なんて思いながら腕を軽く擦ってみたのだが震えは治まらない。よく見れば鳥肌もありえないくらいに立っていてかなり驚いた。どうしたんだろう。  自分の腕が自分のものじゃないみたいな、奇妙な感覚だった。  まぁ、このまま歩いていればそのうち体もあったまるだろうと、顔を上げる。  背の高い銀と金の髪の青年が2人、並んでいるのが目に入ってきた瞬間──ガツンと来た。 「……ぁ……?」  濁流のように溢れてくる真っ赤な記憶に、両脚ががくがくと震え始めた。  美しいクリスタルと黄金の世界が、ぐらついている。体を支える幹が、突然引っこ抜かれたかのような衝撃だった。  前髪の生え際から、冷や汗が滝のように流れ落ち、赤い視界が暗く狭まってくる。  耳の奥がぼうっと膨れ上がり、前を行く2人の声すらも遠い。  息を吸おうにも肺が膨らまない上に、胸の奥が寒い。まるで氷水に心臓を閉じ込められたみたいだ。  部屋に入れと、マティアスに強く押された背中。  窓際に佇んで、悠々と酒を飲んでいたアレクシス。  自分を見下ろしてくる赤と、碧眼。振りかぶられた拳。倒れ込んだベッドの柔らかさ。  頭上で交わされた残酷な会話。押さえつけられ、微塵も動かせなくなった手足。剥き出しの素肌を這いまわる手や唇や舌。  慣らしてもいない下肢に突き入れられた指、広げられ、2つの視線にじっくりと晒された中。  無遠慮に突き上げられる激痛。  かわるがわる圧し掛かってきた2つの影、重み。  無理矢理引きずり出された、おぞましい快楽。淫らに喘ぎ、嬌声を上げる自分。命じられるがまま腰を振り続けた、醜悪な自分。少しでいいから休ませてほしいと懇願しても、やめてもらえなかった地獄の時間。  鼻の奥にツンと染みる、青臭くて血交じりの強いアルコホルの香。垂らされたそれ。  性奴隷でしかない、自分。  ──あ、駄目だこれ。  数歩、足を前に出してなんとか体を支えようとするも、無理だった。視界がちかちかと瞬いて、爪の先までもが痙攣する。  ふっと両足の裏が床ごと抜け落ちそうになって、まともに立っていられなくなった──ヤバい。   「ね……え、ちょっと、トイレに行ってきてもいい?」  震える腕を後ろに隠す。振り向いたアレクシスには、我慢しろとすげなく却下された。その声も、どこか遠い。 「なんだよ、歩きながら漏らしちゃったら、あんたの奥さんが月桂館でおしっこ漏らしてたって噂になるよ。お茶会を楽しむマダムたちのゴシップネタになってもいいのかよ!」  周囲に聞こえるように叫べば、アレクシスは苦々しく舌打ちをした。マティアスは「さすが坊やだ」と肩を震わせて笑っている。楽しそうだ。  アレクシスが足をこちらを向けるが、酷くゆっくりとした動作に見える。  そんなことないはずなのに、リョウヤの周囲がおかしい。  世界がおかしい。 「なら、僕も行」 「うんこもだけど一緒に個室入りてーの?」 「……」 「俺は別にいーけどさ」  結局、顎でしゃくられた。 「3分以内だ」 「3分じゃ無理! 出てる途中で止まっちゃう」 「……すぐに戻れ。逃げるなよ」 「だから逃げないってば。ここに来てまで疑うわけ? も~……」 「手洗い場はそこだよ」  全てを振り切るように全速力で走る。 「あらら、随分と我慢してたみたいだねぇ」  マティアスの呑気な声を背に、角を曲がる手前のところにあった手洗い場に駆け込む。  幸い誰もいなかったので、個室に飛び込んで震える手でガチャンと鍵をかけた。  1人になった途端、体の震えはピークに達した。 「は……は、ぁ……は、ァ……ぁあ」

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