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34.三歩進んで忘れる鶏(3)

 あっという間に体中が汗だくになって、ずるずると扉伝いにしゃがみ込む。  二の腕をぎゅうっと抱きしめた。平気だと思っていたのに、体にガタが来てしまった。金属の枷はこれだから厄介だ。どうやっても音が鳴ってしまうので隠しようがない。  1人の時はこうなっても対処できるのに、人前でこうなってしまうとどうしようもなくなる。それに、周囲に人がいる状態でこんなことになるのは初めてだった。  『それは相手が同じ生き物である場合だろう?』  本当に、今日は調子が悪い。封じ込めたはずの声すらも聞こえてくるだなんて。 『僕たちの行為はただの自慰だ。人の形をした人形を使った、な』 「うるさい、違う…違う、俺は人間だ、人間……」 『いい加減自覚しろ。おまえは人形だ』 「ぅ……」  心の底の底に沈ませた痛みはすべて無にした。だからもう、痛まないはずなのに。  どうしてこんなに、苦しいんだろう。 『早くしろ。人間様に気持ちよく穴を使って頂くことが、体と引き換えに自由を得た性奴隷の仕事だ』 「──ッ……!」  震える両手で髪をかきむしる。何を、やっているんだ。これからニホンジンに会いに行くというのに、こんなナリじゃ話もできない。   「止まれ、とまれとまれ、止まれよ、止まれ……!」  しかし、体を丸めても丸めても震えは増すばかりだ。しかも喉の奥が嫌な詰まり方をしてきた。首を押さえてごくんと喉を鳴らし、せり上がってきたものを胃に押し戻す。  それでも、震えは止まらない。  どうしよう、どうすればいい。このままじゃ立てなくなってしまう。  どんな時でも立ち上がらなきゃいけないのに。そうしないと、俺は。 「なんで……嫌だ、いや……」  咄嗟に腕を爪でひっ掻くと、ずりっとした鋭い痛みに黒い靄が少し遠ざかった。  血の気が、引く。そうかこうすればいいんだ。  ざりざりと、腕を掻きむしり始める。枷の下の、手首の辺りに爪を食い込ませて下に引く。  何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、何度も──何度も。  腕に走った無数の白い線が、じゅわっと内出血して赤い縦線に変わっていく。肌を傷つけることを繰り返していく内に、徐々にだが震えが治まってきたような気がした。  左腕が真っ赤になったので、今度は右腕に爪を立てる。自分を鼓舞するため、心の中で叫ぶ。頑張れ、あと一息だ。あともうちょっとで大丈夫になる。 「いたいの飛んでけ、いたいの痛いの、飛んでけ、痛いのとんでけいたいの、とんでけ、いたいの」  これを唱えていればどんなことでも頑張れる。ナギサも頑張れって言ってくれている。  最後にぎちっと、皮膚に食い込むぐらいに爪を突き立てて、ざりりっと引く。掻きむしった皮膚がぷつぷつと赤く盛り上がり、破け、玉のような血が浮き出た。  この瞬間、やっと震えが止まった。  安堵のあまり、ふう~っと長い息を吐く。額の汗を袖で拭い、くしゃりと泣き出しそうな顔で微笑む。 「よかったぁ……」  ちょっと血が出てしまったけれど、これはもう仕方がない。  腕に触れてみるとかなり熱を持っていた。熱くなって震えが止まったのだから、やはり寒かったのだろう。うん。朝から天気も悪かったしな。  でも本当によかった、これでいつもの自分に戻れた。  もう何もかもが、大丈夫だ。 「おーい坊や、まだ頑張って踏ん張ってるのかな? もうすぐで5分経っちゃうよ」  きいっと、扉が開けられる音。扉に背を押し付けながらずるずると立ち上がる。 「あれ、どこにいるの? もしかして逃げちゃった?」 「……だから、逃げてねーっつの。今出るから待ってて」  備え付けの麻布で血をふき取れる。幸い皮膚がちょっと破けたぐらいで傷は浅いので、血は固まるだけで流れない。ただ赤みはまだ目立つので、袖をぎゅうっと伸ばしてボタンを締めて上手く隠した。  ふんわりと袖口が膨らむような袖でよかった。  ガチャンと個室の鍵を外し、外に出る。 「長かったねぇ、そんなにたまってたの?」 「あんたと一緒にすんな」  背を向けて、血が付着した指先を洗い流す。  爪もわずかに欠けていたが、これぐらいであれば目立ちはしないだろう。 「どう? ちょっとここで遊んでいく? アレクシスには内緒でさ。3分くらいで終わるよ」 「結構です」 「ちゃんとイカせてあげるから」 「へえ、噛み千切られてーの? もう情報は持ってないんだろ、だったら今度こそ容赦しないからね」 「おーこわ、残念だなぁ」  もうニヤニヤ顔のマティアスを見ても震えない。これならアレクシスを見ても、いつもの自分として振舞えるはずだ。不審にも思われていないようで、安心した。 「ほら、そんなことより早く行こっ、ニホンジンに会わなきゃなんだから!」  動かし辛い足を振り切るように、マティアスの背をぐいぐいと押す。  手洗い場から一歩踏み出せば、再び黄金とクリスタルの世界に迎えられた。広い中庭からは、眩いばかりの太陽光がさんさんと降り注いでくる。  もう、世界はどこもおかしくない。    今日は本当に、天気がいいなぁ。  震えていたことなんて、3歩進んだら忘れた。  鶏みたいだ。  ──────────────  明日から新キャラが出ます~!

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