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35.和久寺 秋一(2)
悪口など聞きとれていないはずのアレクシスは、なんとなく察しているのか目に見えて不機嫌なっていた。
「……いい加減にしろ」
「申し訳ありません。久々に日本語を話す方と出逢えてつい嬉しくて。あの、立ちっぱなしもなんですからどうぞ中へ入ってください」
丁寧な所作で促されたというのに、アレクシスは入口付近の壁によりかかってそっぽを向いた。
マティアスは見るからにウキウキと、部屋の後ろのソファに優雅に腰掛けた。
やはりマティアスの視線は舐めるようにシュウイチに向けられている。目を離さないようにしなくてはと決意を新たにし、どうぞと、引かれた椅子に座る。
シュウイチはわざわざリョウヤが座り終えてから、目の前に座ってくれた。
所作がいちいち紳士的だ。
「では改めまして。初めまして、僕は和久寺 秋一と申します」
「あっ、ごめん、自己紹介まだだったね……俺は、坂来留川、良夜……です。サカクルガワ、リョウヤ。リョウヤのリョウはリョウシツのリョウで、ヤは、ヨル。あっちはアレクシスで、その2はマティアス」
「その2ってなに?」
「いえ、こちらの話ですのでどうぞお気になさらず。良夜さんですか、素敵なお名前ですね」
「──す、すごい! 俺、自分の名前普通に言える人初めて見た!」
思わず言葉も弾む。しかも丁寧に「さん」付けだなんて。
「あはは、それは僕もですよ。こちらの言語は本当に独特ですよね。ヨーロッパやアジア、アメリカとも似ていませんし……字自体もルーン文字みたいですし。語学はそこそこできる方だと思っていたのですが、まともに話せるようになるまで3年はかかりました。聞き取り辛かったらすみません」
「そんなことないよ、全然喋れてる」
「ありがとうございます。良夜さんもお上手ですよ」
「俺はこっちの生活長いからさ」
ナギサと2人でいた時は、常にニホンゴで生活していた。しかしナギサが死んでしまってからはニホンゴを話せる人がいなくなってしまって、故郷の言葉を忘れないために毎日毎日必死だった。
だがその結果、こうして同郷のニホンジンと会話ができているのだから頑張った甲斐があった。
「誰かとニホンゴで話すのもかなり久しぶりだから、俺はそっちがちょっと、へたっぴかも……」
「それは僕も同じですよ。故郷の言葉なのに、ずっと使っていないとどうにも慣れないですよね、変な感じです」
シュウイチの笑みにつられてリョウヤも笑う。
改めて、目の前にいる青年を見る。よく見ると、彼の瞳はリョウヤのような完全な黒ではなく、深いこげ茶みたいな色だった。それでも、この世界にいる明るく透けるような茶色の目をした忌人よりも、限りなく黒に近い。
なんだか不思議な気分だった。地に足が付いていないような、ふわふわとした柔い何かにずっと包まれている。
これが、浮かれているというやつなのだろう。今、目の前に本物のニホンジンがいるだなんて夢のようだ。
不安になって軽く手の甲をつねってみると、やっぱり痛い。よかった、現実だ。
一瞬視界に入った爪の先がちょっとギザギザになっていて、あれ? と思った。
なんでだっけ。ま、いいか。
だって、それ以上に凄いことが目の前で起こっているのだから。
ニホンジンだ。
リョウヤが夢にまで見た、幸福な世界からやってきた、本物のニホンジンた。
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