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第1話

「ここは立ち入り禁止ですよ!」  若い青年の声が聞こえて、男は声のしたほうに振り向いた。  男の名はイングヴァル・イースグレンといい、この密林に集う冒険者の一人だった。  浅黒く日焼けした肌に、襟足の長い真っ黒な髪。長い旅で前髪は邪魔なほどに伸びてしまっていた。口の周りと顎に短い髭を生やしており、三十代ほどに見える。  きびきびとしていて年齢より若く見えるが、どこかくたびれた雰囲気を持っている妙な男だった。  ファーのついた紺色のフード付きマントに、藍色のキルトで作った膝丈の分厚いギャンベゾン――鎧の下に着る上衣――を着ていた。その下にも重ね着をしていて、ベルトをしているからかろうじて腰が締まっているシルエットをしていた。  褐色の革でできた揃いのブーツと分厚い手袋をしていて、毛布と旅道具を詰めた革袋を背負っている。  腰にはナイフと取り回し重視の短めの片手剣を提げていた。  なんということはない出で立ちなのだが、一年を通して温暖、暑いほどの気候のこの地に限っては場違いな格好と言わざるを得なかった。  これ以上ないというほどの厚着をしているイングヴァルは、ねっとりとまとわりつくような熱気の中、汗一つかかずに平然とした顔をしていた。  辺りには細長い葉を並べた(トウ)が地面を埋め尽くすように生え、その覆いを押し退けて育った木は陽光を求めてうねうねと曲がりくねっている。  その木にはつる草が蜘蛛の巣のように木々の間を繋ぎ、容易に人が立ち入れない密林を形成していた。  薄暗い密林は見通しがきかず、声のしたほうに限らず周囲を見渡すが人の気配は感じられない。  木々の隙間から木漏れ日が差し、深緑の葉が陽の光に透けている。  木が陽の光を求めて成長するほど幾重にも重なった葉が光を遮り、地上にはわずかしか光が届かない。  より高く。より大きく。より広く。  この地に根を張った木々は生きるためにさらなる高みを目指し、芽吹いた葉はまた密林に影を落とし、地上に光のない瑞々しい煉獄を生み出すのである。  罪を清めた者から救われる。  そういう意味では、イングヴァルもこの煉獄に足を踏み入れた者の一人であった。  この密林には竜がいる。  竜の蓄えている数々の財宝の中にあらゆる望みを叶える宝があると聞いて、男はこの地を訪れた。  罪を雪ぐために、奇跡を求めている。  それが本当に罪だったかもわからない。  しかし周囲はイングヴァルの死を願った。  そうして、イングヴァルは死んだ。  イングヴァルはなかなか声の主を見つけられずに目を凝らす。  ――魔物か、人間か。  この密林には様々な動物や魔物が生息している。  最寄りの街で聞いた噂では、ハーピー――女面鳥身の怪物が冒険者に襲い掛かると聞いた。人間の声を真似て獲物を誘い出し、足で蹴り殺してその死体を貪るのだという。  そして、冒険者を狙う追い剥ぎも多い。 「ふむ。空耳だったかな。やけにはっきりとした空耳だったが」  イングヴァルは顎に手を当てながら呟いた。落ち着いた声音だった。  イングヴァルは声の主を探すことを諦め、密林の奥へとまた歩き出した。 「こら! 人の話を聞きなさい! ここは教会が管理している土地です! 許可証を持たない者は入れません!」  また若い男の声がした。今度は後方、上からである。  振り返って見上げると、白いローブを羽織った金髪の若い青年が木の枝の上に立っていた。  青年は枝から軽々と飛び降りる。燕尾のように二股に分かれたローブがはためき、白い鳥の翼を思わせた。  青年はイングヴァルを怪しそうに見つめながら、慣れた足取りで近付いてきた。   ゆるやかに波打った金髪を後ろに撫でつけて額を出しており、切れ長の青緑の目は大きめでどこか幼さを残していた。十代半ばに見える。  向こう側が透けて見えるほど薄手の真っ白なローブは一目で上等なものとわかり、黄色の丈の長いベストを着ていた。ローブとベストには揃いの金縁の装飾が施されている。 「許可証を見せろって言うんだろう?」  イングヴァルは自分より若い青年を軽んじることなく接した。年が若いからといい加減に扱われるのは嫌いだったから、自分もそうすることはしないと決めていた。  言いながらイングヴァルは上着の内ポケットから手に収まるほどの大きさの木札を取り出し、青年に差し出した。  細長い木札には翼を象った紋章が描かれている。世に広く威光を知らしめている教えのシンボルだった。  端には穴が開けられ、独特な結び方で花を模した紐飾りがついている。  イングヴァルの近くまで来た青年は、イングヴァルのことを怪しそうにじろじろと眺めた。 「なんです、その格好は。そんな厚着をしてこの森を歩いていたんですか?」  言いながら金髪の青年はイングヴァルの手から木札を取った。  言葉遣いは丁寧だが、幼く見られないように背伸びしている感じがある。 「寒がりでね」  本気なのか冗談なのかわからないイングヴァルの言葉に青年は眉を寄せながら、許可証を()めつ(すが)めつして確かめていた。 「この森に入った目的は? 一人でこの森を探索するのは危険です。立ち入るなら説明があったはずですが」 「魔物の研究の下請けってやつかな。魔物を倒して、骨とか牙とか内臓とか、そういうものを取ってきてくれって頼まれているんだ。北のフロード大学の連中さ」  真っ赤な嘘である。  嘘こそ自信たっぷりに言うのがいいとイングヴァルは思っていた。 「この許可証は偽物ですね」  青年はきっぱりと言い切った。  彼は怪しそうな目から、確信をもって不審者を見る目でイングヴァルを責め立てるように見つめていた。 「に、偽物!? そんな馬鹿な……」 「この札についている紐飾りは、偽造防止のために特別な結び方をしています。結び方を知っているのは教会の者だけ。これは結び目が違うので一目でわかります」  青年が言い終わる前にイングヴァルは駆け出していた。 「あっ、待て!」 「偽物だって? 高い金出して買ったのに……!」  この密林は魔物が棲息していて危険な場所であり、竜の溜め込んだ財宝目当ての冒険者が後を絶たないことから近年は教会の発行した許可証がないと入ることができなくなった。  その許可証も、身元の確かな学者などが研究目的に入る場合や、敬虔な信者が巡礼に訪れる場合くらいしか発行されない。  それでもイングヴァルのような者が教会の目を盗んで入り込むため、青年のように見張りが巡回しているのだ。  イングヴァルは最寄りの町の酒場で、怪しい男に声をかけられ大枚を叩いて許可証を買った。  その男はいかにも怪しい風体だったので、こんなに怪しいのならば裏社会に精通しているに違いないと踏んだのだが、ただの怪しい男だったようだ。  偽物だったとは――。  許可なく立ち入った者は身柄を拘束され、臭くて汚い檻の中で裁判を待つ羽目になる。保釈金を払えばすぐに出られるが、そんな金はない。  裁判とて形だけで、最近建造を始めた大聖堂の労働に駆り出されるだけだ。  そんなことは御免被る。なんとしてでも逃げなくてはならない。  何度も木の根に足を引っかけて転びそうになったが、意地で走り続ける。 「逃げるな! 不法侵入者!」  追いかけてきた青年は叫びながら前方に手を突き出すと、魔法陣が浮かび上がって光球を放った。  これが人間に当たれば暫しの間動けなくなる。  イングヴァルは近付いてくる魔力の気配と音を頼りに、次々と放たれる光球を避けていった。 「器用なやつ……!」  青年は毒づいた。  イングヴァルはなおも走り続ける。青年はどこまで追いかけて来るのかと思いを巡らせたところで、突然視界が開けた。  崖だ。  突然に地面が途切れてイングヴァルは足を止めた。  密林は途切れ、一段低い大地にまた鬱蒼とした密林が広がっている。そこを横切るように大きな川が流れており、支流がいくつも伸びている。その先には大きな湖があった。  イングヴァルは来た道を振り返って考える。  青年とはまだ距離がある。  イングヴァルは持っていた革袋を木の陰に隠し、近くにある木に登り始めた。  人は何かを探すとき左右ばかり気にかけて、案外上を見ないものである。  木の幹に巻き付いたつるを頼りに登り、十分な高さになると横に張り出した大きな枝に乗り、ひとまず安心して息を整えた。  下の様子を窺っているとすぐさま青年が追いついてきた。 「どこだ……!」  イングヴァルを見失い、青年は辺りを見回す。  その様子にイングヴァルが口の端を吊り上げた瞬間、乗っていた枝がみしみしと派手な音を立てながら折れた。 「なっ……!」  思いもしなかった事態に受け身も取れずにイングヴァルは地面に落ちた。 「いでっ……」 「あっ! そんなところに!」  樹上から突然落ちてきたイングヴァルに青年が駆け寄ろうとしたその時だった。  ■■■■■■――!  びりびりと振動を伝えるほどの魔物の咆哮が上がった。続いて地面が揺れる。  木がめきめきと倒れる音がし、地面に倒れた衝撃が伝わってくる。鳥がけたたましく鳴きながら我先にと空に逃げていった。  イングヴァルと金髪の青年は、互いのことは忘れて音の正体を見極めようとした。  薄暗い密林の中は視界が悪い。何かが起こっているのはわかるが、その正体がわからないのは嫌な気分にさせるものだ。  ずしん、ずしんと規則的に地響きが聞こえる。  巨大な何かがこちらに向かっている。そうとしか思えなかった。  イングヴァルは立ち上がると青年に話しかけた。 「い、今のうちに逃げよう。僕はこっち、君はあっち」  右手と左手で正反対のほうを指差しながらイングヴァルは言う。 「そう言って逃げるつもりでしょう!」 「そんなことない! こういうときは二手に分かれた方が生存率が上がるだろう?」  二人が言い争っているうちに音の正体はこちらに近付いてきている。  イングヴァルも逃げ出したかったが、背後は崖、目の前には青年が立ちはだかっている。  青年は身の安全よりも侵入者を捕らえることを優先するのだと、イングヴァルをじっと睨みつけている。  そうしている間にも周りの木はなぎ倒され、地響きと地面の振動も大きくなっている。  そしてついに音の正体が姿を表した。 「なっ……!」  それは巨大な猪だった。  象ほどの大きさのある巨猪が二人めがけて突き進んでくる。  赤黒くて分厚い体毛はいかなる衝撃をも通さないように見え、木にぶつかっても目立った外傷も見受けられない。  牙も傷ひとつなく念入りに研がれて鈍い輝きを放っている。  体毛も牙も驚異的なものであったが、一番の武器はその巨体だ。  その巨躯が勢いをつけてぶつかってきたら、人間などひとたまりもない。イングヴァルと青年は猪の進路から外れるように横に退いた。  しかし、細く張り出した崖は猪の巨体を支えきれずに地面に亀裂が走る。  猪が一歩踏み出すほどに亀裂は大きくなり、そして地面が崩れ落ちた。 「馬鹿なっ……!」  このまま落ちれば確実に死ぬであろう高さから、イングヴァルは空中に放り出された。  頭を下に真っ逆さまに落ちる中、太陽が目に入る。  自分に恵みを与えることはなくなった大いなる炎。  届かないと知りながら、その輝きに手を伸ばした。  自分が罪人だというなら、罪を贖った先にまた温もりを手にすることができるのだろうか。  そう思いながら旅をしていたが、それも叶いそうにない――。  これで終わりだとイングヴァルは目を閉じた。 「手を!」  諦めた瞬間、青年の声が聞こえた。  目を開けば青年がこちらに手を差し出していた。  その背には鳥のような白い翼。いや、ローブの見間違いかもしれない。  青年は虚空に伸ばしたままだったイングヴァルの手を何とか掴み、翼を羽ばたかせて崩落する崖から離れようとする。 「君は……」  イングヴァルは自分の手を握っている青年をまじまじと見つめた。  見間違いではない。本物の翼だ。  太陽の光を受けて金色に輝く白い羽を持った、猛禽のような雄々しい翼。  月並みながら、天使のようだとイングヴァルは思った。 「あっ……!」  落ちてきた石が翼にぶつかって金髪の青年は呻き声をあげた。  白い羽が抜けて舞い散り、翼には血が滲んでいる。 「大丈夫かい!」 「湖までなら飛べます! なるべく動かないで!」  金髪の青年は気合を入れるように翼を羽ばたかせると、翼を大きく広げて湖に向けて滑空していった。  湖までは少し距離があったものの、森には木が邪魔して降りられそうにない。妥当な選択だった。  イングヴァルは、落ちないように青年の手を精一杯握っていたものの、革手袋越しでは少しずつ手が滑ってしまう。  少し逡巡した末に、空いているほうの手にはめた革手袋を口でくわえて外して腰のベルトに引っかけると、手を挙げて青年に声をかけた。 「大変申し訳ないんだが、こっちの手を握ってくれないかい」 「え? ええ……」  飛ぶのに集中しているからか、青年は少ししてからイングヴァルが何を言っていたかを理解して、イングヴァルの手を取った。  浅黒く、骨太のごつごつとしたイングヴァルの手を、白くてすらりとした青年の手が触れる。 「んん!?」  青年はイングヴァルの手に触れて驚いた。集中が乱れたのか翼がびくりと強張り、がくんと高度が落ちたのを羽ばたいて持ち直した。  青年は恐る恐るイングヴァルの手を確かめるように指先でちょん、と触れてから、差し出された手をおっかなびっくり握り締めた。  しっかりと握れると思ったのか、もう片方の手もイングヴァルの手を握った。  やっと態勢が安定したからか、イングヴァルは辺りを見る余裕ができた。  空から見る密林は緑の絨毯を敷いたように、視界を埋め尽くしている。  この密林のどこかに、竜の巣がある。  しかし、竜はもう何年も目撃証言がない。  生きていれば竜のあとをつけて巣を見つけることもできようが、死んでしまったのか、長い眠りについているのか。そうとなると地道に森を歩いて巣を探すしかなかった。  竜は洞窟などに巣を作るものが多いが、この密林はそこかしこに巨大な地下洞窟があり、その洞窟も蟻の巣のように複雑に入り組んでいる。  この広大な密林から竜の巣を探すのは、干し草の中から針を探すようなものだ。 「気が遠くなるな……」  イングヴァルは小さく呟いた。  大体、竜が願いを叶える財宝を持っている、というのも噂話に過ぎないのだ。誰も確認したわけではない。  たまたま竜の巣にたどり着いた一人の冒険者が命からがら帰ってきて、竜の巣にたんまりと財宝があったと持ち帰った黄金の腕輪や首飾りを見せて死んだ、というのが噂の発端である。しかし、そこに居合わせた人間とやらは見つからない。  何でも願いの叶う宝などありはしないかもしれない。  しかし、そんな不確かなものにさえイングヴァルは縋りたかったのだ。  いよいよ湖が近付き、青年は高さを調整するように何度か羽ばたくと水際の開けた草地にイングヴァルを下ろした。その隣に青年も足をつける。  イングヴァルは青年をまじまじと見た。  少し息の上がった青年は額に流れた汗をローブの裾で拭い、乱れた髪を手櫛で整えた。  長身なイングヴァルよりはやや背が低い。  青年は広げた翼を見やり、慎重に動かして傷のほどを確認していた。動かすと痛むのか顔をしかめている。白い翼に滲む赤い血が痛々しかった。  その様子を見てイングヴァルは申し訳ない気持ちになった。自分なんかを助けるために傷を負わせてしまったと。  空を飛べるというなら、自分など構わずに安全なところまで逃げていればよかったのだ。  それをせずに自分に手を差し伸べてくれた。  よくできた人間だとイングヴァルは思った。  やがて青年は翼を折り畳んで背に隠した。見ればローブの背中には翼の出し入れができるようスリットが入っている。  どのような仕組みであの大きな翼が隠れているのか気になったが、今はそんな場合ではないとイングヴァルは思い直し、青年に歩み寄った。 「あ……、ありがとう。君のおかげで助かったよ。しかし、その翼は一体……」  イングヴァルは革手袋を嵌めながら、驚きを隠せないといった様子で青年に尋ねた。  翼が生えるのは魔法だとしても、単独で空を飛ぶ人間がいるなど聞いたことがない。  青年は、いたずらの見つかった子供のようなばつの悪そうな顔をして黙っていた。言葉が見つからないようだ。  やがて、はっと何かを思いついたようにイングヴァルに向き直った。 「そ、そうだ、あなただって何者ですか。死んでるみたいに手が冷たかった」 「冷え性なんだよ」  イングヴァルは冗談めかして言った。 「嘘です。嘘はよくない。師匠もそう言ってた」  からかわれて不快だと、青年はむっとした顔で言う。 「まあまあ、いいじゃないか。多少の秘密がある方が人間魅力的ってものさ。僕も、君もね。それに、腹の探り合いをするよりやるべきことがあるだろう?」  言ってイングヴァルは両手を広げて辺りを指した。  湖を囲むように密林があり、東には今までいた高台がある。  日は中天を過ぎて傾きかけていた。  どこかに移動するにせよ、拠点を作って野宿をするにせよ、時間がないのは明白だった。 「協力した方がいいと思わないかい? 君の詮索はしない」  友好的だと示すように笑いながらイングヴァルは青年に手を差し出した。  青年は少しの間迷い、もう一回翼を出して様子を見ると、渋々といった様子でイングヴァルの手を握った。 「僕はイングヴァルだ。イングヴァル・イースグレン」 「アウレリオ、です。アウレリオ・アウジェッロ」  青年はそう名乗り返した。  黄金を意味するその名前は、日に当たると黄金に輝く髪や翼に相応しい名前だった。  イングヴァルは握った手を大袈裟にぶんぶんと上下に振ってから、アウレリオの手を離した。 「さて、どうするか……。森に入って二日は歩いていたからな。今日中に最寄りの街まで行くのは無理だ。近くに教会の拠点はないのかい?」 「ここから北の川沿いに、調査するときに使っている拠点があったはずです」  言ってアウレリオは湖の対岸を指した。  そして二人は湖を見て考え込んだ。  この湖は東西に細長く、対岸に行くのに湖沿いを進むと夜までかかりそうだった。  野宿もできないではないが、魔物がうろついている中では安心して眠れそうもない。拠点があるというならそれを利用しないわけにはいかなかった。 「こう、まっすぐ進めればいいわけだ」  イングヴァルはこう進みたい、と進路を示すように湖の対岸を手で指した。 「すみません、思ったより傷が深くて……。しばらくは飛べそうにない」  アウレリオはしゅんと落ち込んだように言う。 「いいさ。鳥の翼は芸術品のように繊細だ。無理はさせないよ。ところで、君は魔法か何か使えるかい?」 「……炎の魔法なら、いくつか……」  歯切れ悪くアウレリオは答えた。苦手なのかもしれない。 「なるほど、なるほど」  イングヴァルは一人でうんうんと頷くと、アウレリオのほうに向き直った。 「まっすぐ進む方法、あるよ」 「あるんですか?」 「ああ」  アウレリオの問いかけにイングヴァルは自信ありげに頷いた。 「どうやって……」 「条件がある」 「条件?」  首をかしげながらおうむ返しにアウレリオが言う。  イングヴァルは頷いて口を開いた。 「一つ、僕を見逃してほしい。そしてもう一つ、僕のことを誰にも言わないでもらいたい。教会の仲間たちにもね」  イングヴァルの提案に、アウレリオは少し考える素振りを見せた。 「僕からも、いいですか」 「何だい?」 「あなたは、俺の翼を見たでしょう。誰にも言わないで。あなたの命を助けたんだから、それくらいはしたっていいはずです」  イングヴァルはわずかに驚いたように眉を上げたが、長い前髪がそれを隠していた。 「じゃあ話は簡単だ。無事に事が済んだら僕たちは出会わなかったことにしよう。拠点には時間差で入って、知らないふりだ。それで君も、僕も安心できる」  アウレリオはイングヴァルの言葉を咀嚼するように考え、やがては頷いた。 「そうしましょう。不法侵入者を見逃すのは残念ですが……」 「無事に帰れたら、僕に偽の許可証を売った奴を教えるよ」 「それはいいですね。師匠が喜ぶ」  言って、アウレリオは目を細めて微笑んだ。  日差しを浴びてきらきら輝く金髪に、宝石のような青緑の目。  髪を後ろに撫でつけているおかげで凛とした印象を受けたが、笑みを見せると途端に人懐こく感じる。  彼の見せる初めての笑顔だった。  その笑顔につられてイングヴァルも口の端を釣り上げた。 「よし、じゃあ始めよう」  イングヴァルは水際まで近付くと、水面に足を踏み出した。  まさか泳ぐのではあるまいな、とアウレリオが声を上げようとした。  イングヴァルの足が水面に触れると湖の水は音を立てながら凍り始め、対岸までの最短距離を結ぶように一直線に氷の道ができた。 「ほら、行こう」  イングヴァルは氷の道を顎で示した。 「…………」  アウレリオは目をぱちくりさせながらイングヴァルと氷の道を交互に見ていた。 「早く。日が暮れてしまうよ」  イングヴァルはそう言ってアウレリオを促すと、氷の道に足を踏み入れた。  アウレリオもイングヴァルに続いて、恐る恐る氷の道に足を乗せた。分厚い氷は体重をしっかりと受け止め、割れる心配もなさそうと判断して次の一歩を踏み出す。  氷の道には暑い密林には縁がない冷気が満ちており、その涼しさが心地よかった。  アウレリオは滑らないように小走りでイングヴァルの隣に並ぶと、自分より背の高い彼の顔を不思議そうに見つめていた。 「こんなに大がかりな魔法を呪文なしで、どうやって……。魔法使いには見えないのに」 「君の翼の秘密を教えてくれたら答えよう」  イングヴァルは言ってアウレリオを牽制した。  詮索されたくないのならば詮索するな、不可侵であれということだ。  それを察したのか、アウレリオはそれ以上言うことはなかった。 「北の拠点とやらはどの程度のものなんだい?」 「幕舎が何個かあって、治療師も含めて十人ほどが常駐してます。食料や薬も蓄えがあります。明日か明後日には交代する人が来ますから、あなたも一緒に森を出ればいいでしょう」 「それはいい。屋根があるのは心強い。それで温かいスープが飲めたら最高だ」  翼を使って飛んで汗ばんでいたアウレリオは、寒くもないのに熱いスープを飲む気なのかと訝しげにイングヴァルを見ていた。 「……あなたも森から出るんですよ」  ちゃんとわかっているのかとアウレリオは念押しした。 「それは困る。僕だって目的があってこの森に来たんだ」 「どうせ宝探しでしょう。ありませんよ、そんなもの」 「それを誰が確認したんだい? まさか神様と言うんじゃあるまいな」 「…………」  上手い返しが見つからなかったのか、アウレリオは黙り込んでしまった。 「拠点には行くが、それまでだ。僕は僕でやらせてもらう」 「命を助けてあげて、食べ物や寝る場所まで用意するのに」  アウレリオの言葉に、イングヴァルは苦い顔をした。  それを好機と見たのかアウレリオは言葉を続ける。 「こっちだって迷惑してるんですよ。立ち入り禁止だって言ってるのに無断で入るし、偽の許可証を作って売り捌くし……。それで怪我した冒険者は毎日のように駆け込んでくる。死体で見つかる。回収して、ちゃんとお葬式を出してお墓に埋めてる。お金ももらってないのに」  良心に訴えかけるようなアウレリオの言葉にイングヴァルは後ろめたいものを感じるのか、ひきつった笑みを浮かべていた。 「困っているなら許可証を売ればいいじゃないか。禁止というから破りたくなるんだ、人間ってものは。ルールを整備してその中で管理すればいい。金も儲かる。いいこと尽くめじゃないか」 「お金を稼ぐようになると、そのお金で悪いことをする人が出るからやらないんだって、師匠が言ってました」 「教会の人間が性悪説を説くとはね」 「……教会だって、いい人ばかりではないですよ」  不満げにアウレリオは言った。  アウレリオの様子でこの話題は潮時だと判断したイングヴァルは、何か話題がないものかと辺りを見渡した。  日差しは橙色に染まりつつある。  湖は心地よい水の音に満ち、その光が水面に反射してきらきらと輝いていた。遠くには水鳥が泳いでいて、時折魚が跳ねている。  こんな状況でなければ素直に綺麗と思えるものを。イングヴァルは残念がった。  不意に、水面が大きく波打って音を立てた。見れば近くでいくつかの波紋が広がっている。  その中心に何があるのかと見つめていると、突然巨大な水柱が吹き上がった。 「走れ!」  言うが早いかイングヴァルは駆け出した。  アウレリオも異変を察知して走り出そうとする。しかし、つるつるとした氷に靴底が負けてしまい一歩目から滑って尻餅をついてしまった。 「いたた……」 「大丈夫か!」  イングヴァルはアウレリオに手を差し出しながら水柱の様子を窺った。  すると、一際大きな水柱が吹き上がる。  その中に大きな影が揺らめいていた。  水が重力に従って落ちると、影の正体があらわになる。  異様な化け物だった。見上げるほど巨大な乳白色の蛞蝓(なめくじ)に何個もひれが生えたような形をしている。  頭部には水を集めたような青色の石が埋まっていた。  蛞蝓は体を持ち上げると、勢いをつけてうねりながら体を水面に叩きつけた。まるで鯨のようだ。  大きな体がぶつかって派手に水飛沫が上がり、水面は大きく波打つ。  水面のうねりによって氷の道は砕け、二人は伏せて重心を低くして今いる氷の上から落ちないようにする。  二人はぽつんと浮かぶ氷の上で完全に孤立してしまった。 「ど、どうすれば……」  アウレリオが不安そうな顔でイングヴァルに尋ねる。水の中では魔物が圧倒的に有利で、ここからすぐに、かつ無事に脱出できる方法はなさそうだった。 「……すまない、魔物を刺激してしまったようだ。君はここにいてくれ。僕が何とかしよう」  言ってイングヴァルは水に足を踏み出すと、また氷の道を作りながら駆け出した。 「何とかって……」  また大きな波が押し寄せ、氷が揺れるのをアウレリオは落ちないように気を付けた。  どの道、これでは何もできまい。 「まあ、いかにも怪しい男だし。もっと力を使えば何かわかるかもしれないな……」  そしてアウレリオはある可能性に思い至った。 「これであの人が魔物に負けたら、俺はどうなるんだ?」  湖にぽつんと浮かぶ氷の浮島の上で、アウレリオは不安に駆られた。  イングヴァルは氷の道を作りながら蛞蝓に向かって走り続けた。  蛞蝓は相変わらずのたうち回るように体を持ち上げては水面に叩きつけている。  波で氷の道が砕けるそばから、イングヴァルは新たな氷の道を作って進む。それを繰り返して蛞蝓に肉薄する。  また蛞蝓が水に沈んだのを窺うと、一層強く氷の道を踏みしめた。  すると雪の結晶を象った文様が広がるように水は凍てつき、その中心から何本かの氷柱が勢いよくせり上がって階段を作った。それをイングヴァルは器用に駆け上がった。  そして蛞蝓が水から顔を出すと、上を取ったイングヴァルは蛞蝓に飛び移る。  粘液でぬるぬるとした体表すら、イングヴァルが足をつけると即座に凍り付く。  今度は頭部にある青い石――核を目指して移動する。  魔物には必ず核があり、人間ならば脳や心臓にあたる弱点だ。容易に破壊することはできないが、これさえ壊せば息の根を止められる。  早く核までたどり着かないとまた蛞蝓は水中に潜ってしまう。猶予は少ない。  イングヴァルは一際強く足を踏み出すとまたせり上がる氷柱を出現させ、自分の体ごと持ち上げ核に向かって勢いよく跳躍した。  そして核の真上に来ると、虚空を掴むように手を伸ばす。  その手の先、急速に冷えて白くなった空気が一か所に集まり、やがて塊となって見る見るうちに魔物の体ほどある巨大な枝の形を成した。  遠目には氷でできた大樹が宙に浮かんでいるように見えるだろう。 「いっけええええ!」  イングヴァルは手を振りかぶると、あらん限りの力をこめて振り下ろした。  手の動きに連動するように氷の枝も核めがけて勢いよく落下する。  加速をつけた巨大な質量をぶつけられ、蛞蝓の核にひびが入り粉々に砕け散った。  ■■■■■■――!  蛞蝓は断末魔と共に水飛沫を上げ、今度こそ水の中に沈んでいった。  空中にいたイングヴァルは水面に氷で足場を作ると、そこに危なげもなく着地した。 「速さと重さが破壊力ってね」  イングヴァルは自分の言葉にうんうんと頷き、水面が落ち着くのを待ちながら辺りを窺う。  異変がないのを確認すると、また氷の道を作ってアウレリオの方に向かっていった。  しばらく歩いてアウレリオの元に戻ると、彼は眉根を寄せて、疑いの目を隠すこともなくイングヴァルに向けていた。 「なんですか、今のは……。呪文も何もなしにあんな魔法を使うなんて、あり得ない」 「話はあとだ。早く渡ってしまおう」  イングヴァルが言った次の瞬間、二人は異変に気付いた。  自分たちの乗っている氷の下に、大きな影が揺らめいている。 「新手か!」  二人が反応する前にその影は水面に向かって迫り上がってきた。 「あっ……!」  水面から、先程の蛞蝓に勝るとも劣らないほどの大きさをした魚が姿を表した。  人をも容易く飲み込むほどの巨大な口は目測を誤ったのか虚空を捉え、鋭い牙を持った顎が虎鋏のように勢いよく閉じられる。  すぐさま水面に潜った頭に続くように、虹色に輝く鱗を持った長い身体が過ぎ去っていった。  魚に押し退けられて二人の乗っていた氷は離れるように動いてしまい、アウレリオはイングヴァルのほうを見やった。  周囲を窺っていたイングヴァルの後方に影が忍び寄るのを見て、アウレリオは叫んだ。 「伏せて!」  アウレリオの言葉に従って身を低くしたイングヴァルの背後からまた魚が姿を表した。水面から大きく飛び上がり、落ちる勢いで獲物を掻っ攫おうとしている。  アウレリオは目を閉じて息を吸い、かっと目を開くと大きく口を開け、吼えた。  その口から放たれたのは声だけではない。  魚を包み込むほどの火炎が勢いよくアウレリオの口から迸る。  辺り一帯が熱に包まれ、周りの水が瞬時に蒸発して水蒸気が辺りを覆う。  イングヴァルは氷が溶けるそばから氷を生成して、なんとか水に落ちることは防いだ。  炎に包まれた魚は断末魔もあげる暇もなく魚は灰になった。 「き、君、その炎は……」  イングヴァルが信じられないといった様子で目を丸くしたままアウレリオに尋ねる。心なしかその声は震えていた。 「……あ、あの、今のも見なかったことにしてくれますか?」  肩をすくめ、怯えるように自身なさげにアウレリオは言った。  翼といい、魔物を一瞬で灰にする炎といい、この青年は一体何者なのか。  イングヴァルは、この場では会わなかったことにする、という自分の言葉を後悔した。 「……いいとも。さあ、今のうちに」  疑問を飲み込んでイングヴァルは言うと、氷の道を作り直して進み始める。アウレリオはその後を慎重に歩いた。  滑らないように歩くのは困難だったが、時間をかけて何とか対岸に渡ることができた。  久しぶりに大地に足がつき、アウレリオはこの足場は安全だと確かめるように何度も踏みしめる。 「いやあ、疲れた……っと」  危険が去って安心したからか、イングヴァルはよろけてそばにある木にぶつかった。 「大丈夫ですか」 「さ、さすがにちょっと疲れたかな……。この年になると走るのがつらいよ。少し休んでもいいかい」  アウレリオの返事も待たず、イングヴァルは足の力が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。  アウレリオは慌ててイングヴァルの背を支える。  今までは余裕のある振舞いだっただけに、立っていることもできないほど疲弊している姿を見せられてアウレリオは不安そうな顔をした。 「顔が真っ青です。魔力切れもあるでしょう」  アウレリオの言葉にイングヴァルは首を横に振った。 「僕は魔力切れなんて起こさないさ。ただ、立て続けに大きい力を使ったから体がついていかなくってね。少し休めばよくなる」  イングヴァルはアウレリオを安心させるように、笑顔を作って答えた。  アウレリオはイングヴァルの思惑とは反対に、真摯な顔をしてイングヴァルに尋ねた。 「……何ですか、あれは。魔法にしたってでたらめだ」 「おや、魔法というのは不可能を可能にする奇跡ではなかったのかい」 「話を逸らさないでください」  まっすぐな青緑の目に見つめられ、イングヴァルは視線を逸らした。 「いやあ、隠すほどのことでもないんだけど、教会の人間に知られるのは問題だな……」  イングヴァルは誤魔化すように頭を掻き、苦笑した。 「……興味はありますけど、知らないふりでしたね」  アウレリオは残念そうに言う。 「助かるよ」  言ってイングヴァルは力なく笑った。  空の月が輝きを増し、少しずつ夜の色が空に混じりだした。  イングヴァルの調子が戻るまでしばし休憩し、二人は湖から流れ出る支流を辿って拠点だった場所に辿り着いた。  拠点だった場所というのは、先ほどの猪のような巨大な魔物が通り過ぎた痕跡があり、それによって幕舎も資材も何もかもが潰されていたからである。  拠点となるからには元から開けた場所なのだが、それをさらに広げるように木がなぎ倒されていた。  こう滅茶苦茶になっては仕方ないが、放棄されたようで人の姿はなかった。 「そんな……」  想定外の事態にどうしたらいいのかわからないといった風に、アウレリオはイングヴァルを見つめた。 「今日はここで野宿にしよう。何もないよりましさ。水と食料、火と寝る場所だ。暗くなる前にやることは沢山ある。できるかい?」  イングヴァルの言葉に、狼狽えている場合ではないとアウレリオは頷いた。  それを見たイングヴァルは満足そうに頷き、いくつかの指示を出した。  本格的に暗くなる前に拠点の残骸から手分けして食料や食器、毛布を見つけ、無事だった鍋で川から水を汲んだ。  丁度煮炊きに使っていたであろう石で組んだ竈があったので利用する。そのそばに柱を立てて、ぼろぼろになっていた幕舎を建てた。  本当は何人も寝られるような立派なものなのだが、曲がってしまった柱でなんとか組み上げたため、二、三人しか入る空間がなかった。しかし、一晩だけなら十分な働きをしてくれるだろう。  竈の上に水の入った鍋を置いて水を沸かす準備をする。  塩漬けの干し肉でもあれば鍋に入れて簡単なスープができたのだが、獣に持っていかれてしまったようで見当たらなかった。  いよいよ日は地平線に潜り、辺りは本格的な夜の気配を感じさせていた。  竈に突っ込んだ薪にアウレリオが息を吹きかけるように小さな炎を出し、簡単に火がついた。  それを見ていたイングヴァルは枝を拾う手を止めてまじまじとアウレリオを見つめ、思い出したように手に持っていた枝を竈のそばに置いた。   アウレリオが焚火の前に座ったのを待って、イングヴァルは彼の隣に腰を下ろした。 「これ、どうぞ」  イングヴァルが口を開きかけた瞬間、アウレリオが紙に包んだビスケットを差し出してきたので、イングヴァルは礼を言ってそれを受け取った。  包み紙を破って歯の立たないほど固いビスケットをなんとかかじると、水分のないそれをごりごりと音をたてながら噛み砕く。  そうしながら、失礼にならない程度にアウレリオのことを観察していた。  ――ただの少年にしか見えない。  あの翼。そして何より炎だ。  単独で飛行することも、魔物を一瞬で灰にする炎を操ることも、普通の人間では説明がつかない。  しかし彼が普通の人間でないとしたら、心当たりはある。しかし、にわかには信じがたいことだった。  イングヴァルは薪を組み直そうと竈の炎に近付く。  何も感じない。  革手袋を嵌め直すのを装って手袋を脱いで火に手をかざしたが、結果は同じだった。  この数年間、熱を感じることなどなかった。  しかし、湖でアウレリオが見せた炎はどうだ。  炎から放たれる熱気で頬がひりつくように熱かった。  その感覚を思い出すように頬に手をやる。感触こそ柔らかいものの、そこに温もりなどなかった。  イングヴァルは手袋を嵌めて、何ともなしに薪をいじっていた。  そして煌めく炎を見つめた。  あの炎は見た目こそ普通の炎だったが、何か特別な力なのだろう。  間近に彼の炎が迫ったとき、イングヴァルは久しぶりに自分の鼓動を感じたような気がした。  感覚のほとんどない体だ。そんなもの錯覚にすぎない。この体はずっと氷のように凍えたままだ。  そう自分の思いつきを否定しようとした。  しかし、どうしてもそれができない。  白い雪に閉ざされた冬に終わりを告げるように、青い花が咲いているのを見つけたときのような。  胸に湧き上がったこの感情の名前を、やっとイングヴァルは思い出した。  ――だから何だというんだ。  手に持っていたビスケットの包み紙を焚火の中に放り込む。  この少年が自分に熱を感じさせたからといって、どうするつもりだ。  この森を出たら、その先は。ずっと一緒にいるとでもいうのか。そんなことはできない。  この森で自分たちは会わなかった。そうだ、そう約束した。  包み紙が火の中で灰になっていくのをじっと見つめ、やがて元いた場所に座りなおした。  アウレリオは、自分の分のビスケットを手に持ったままそれを眺めていた。見れば、随分と不安そうな顔をしている。 「お腹空いてない……」 「それでも食べた方がいい。生き残るのはどんな状況でも食べられる人間だよ」  イングヴァルの言葉に従ったほうがいいと思ったのか、アウレリオはビスケットの包み紙を破って少しずつ食べ始めた。  その様子を見て、素直な人間だが他人の言うことを聞きすぎるのも危ういところがある、とイングヴァルは思った。無論、彼を騙そうなどとは微塵も思っていないが。  良くも悪くも大事に育てられている。イングヴァルはそう結論付けた。 「野宿は初めてかい?」  アウレリオは何も言わずに頷いた。それから静かに話しだした。 「いつもは師匠とここの見回りをしてるんですけど、師匠、途中で仕事が入っちゃって……。一人で帰ることになったんです。その途中、あなたを見つけて声をかけた。一人でも見回りくらいできるって師匠に見せたかったけど、駄目だったな」 「駄目なんかじゃないさ」 「えっ……?」  アウレリオは今聞こえた言葉が本当か疑うかのようにイングヴァルの方を見つめた。  その視線を真っ直ぐに受け止めてイングヴァルは言う。 「君はいい人間だ。怪我を負ってまで僕を助けてくれた。誰にだってできることじゃない。それに、翼も炎のことも知られたくなかったというのに」 「で、でも、帰ったらきっと師匠に怒られるから……」  アウレリオはそう言ってまた俯いてしまった。 「君の師匠は何と言うかわからないが、助けられた僕が言おう。君はいいことをしたんだよ」  いつになく真摯な顔でイングヴァルが言った。  その言葉を素直に受け止められないのか、アウレリオは信じられないという目でイングヴァルを見つめている。  そして、少し経ったあとに実感がわいてきたのか、照れるように笑った。 「あ、ありがとう、ございます……。初めて師匠以外の人にほめられました」  恥ずかしそうに言うアウレリオは戸惑いを見せつつも、嬉しさを隠しきれないようだった。 「……若い頃の焦りというのは、僕にも覚えがあるよ」  言って、イングヴァルは昔を思い出すように炎を見つめた。 「早く大人になりたくて、無理ばかりしていた。僕には兄二人に姉が一人いて、年が離れていたから余計にね。親にも周りの人間にも迷惑をかけ通しだったよ」 「家族がいっぱいいるんですね。四人兄弟で、お父さんにお母さんまで」  アウレリオは指折り数えながら、不思議そうに言った。 「僕の家は小さいけれど領地を持っていたからね。なんとしてでも血を継いだ跡取りを残す必要がある。保険ってやつさ。それに跡取りでなくても、男なら嫁をもらって、娘なら嫁に出して血縁を増やす役目がある」 「ってことは、お嫁さんも……!?」 「いないよ」  興奮したように言うアウレリオに、イングヴァルはきっぱりと言い切った。 「いつまでも剣だの弓だの振り回している十代の僕は、勉強しろって都会の大学に行かされてね。そこに紛争の噂を聞きつけて、いよいよ実践の機会だと駆けつけて、流れで商会のやってる傭兵団の団長になって……。家にはずっと帰っていないよ。どこぞで死んだと思われてるだろう」 「い、家に帰りたくないんですか? お父さんとかお母さんに、会いたくなったり、しないんですか?」  イングヴァルの行動が理解できないとでも言うようにアウレリオは困惑している。 「両親に会いたくないとか、そういうわけではないが……」  言って、イングヴァルは自分がそうした理由を考え込んで口を開いた。 「家の力に頼りたくなかったんだ。自分の力で生きてみたかった。何も言わずに飛び出した手前、行くところがなくなったから帰りますとは言いにくいし。……思えば、手紙の一つでも書けばよかったかもしれないな。何の意地を張っていたんだか」  自嘲するようにイングヴァルは笑ってみせた。 「……俺は、お父さんとお母さんに、会いたいのに……。家に帰りたくない人も、いるんだ……」  消え入りそうな声で、アウレリオは呟いた。 「君のご両親はいい人なのかい?」  イングヴァルの問いに、アウレリオは首を振った。 「わからない。俺が生まれてすぐに死んじゃった」 「す、すまない、立ち入ったことを聞いて……」  その言葉を聞いてイングヴァルが詫びると、アウレリオは言った。 「いいんです、気にしないで。それに、悪いことばかりでもないから。師匠は厳しいけど、俺のことをちゃんと見てくれてる」 「その師匠が親代わりか。まあ、君を見ていればよく育ててくれているのはわかるよ」 「そうかな」  言ってアウレリオは照れくさそうに笑った。 「師匠も大分人間じゃないっていうか、定義からすると人間ではないんですけど、でも、俺の相手をしてると人間だった頃を思い出して楽しいって、言ってたな」 「へ、へえ……?」  アウレリオの言葉をどう判断していいものかイングヴァルは悩んだ。  嘘をつくような人間には見えないし、かといって人間ではない師匠というのも一体どういう存在なのかと気にはなったが、つい先ほどの彼の両親についてのやり取りを思い出し、深入りするのはやめることにした。 「あの……、い、いや、やっぱりいいです」  アウレリオは何かを言いかけて、その言葉を自信なさげにすぐに引っ込めた。 「何だい、そうされると余計に気になってしまうが」 「はは、ですよね……。でも本当に気にしないでください。大したことじゃないので」  アウレリオは誤魔化すように笑った。 「大したことじゃないなら、言っても構わないってことじゃないか?」  イングヴァルの返しにアウレリオは言葉を詰まらせた。 「……言っても、笑わないですか」 「笑わないさ」  言われてアウレリオは少しの間ためらったあと、恥ずかしそうに口を開いた。 「ねえ、イングヴァルさんには、友達っているんですか?」  アウレリオの突然の問いに、イングヴァルは驚いて片眉を上げた。 「友達?」 「俺、家族も友達もいたことないけど、教会にいる人は誰かといるとき、楽しそうに話しているのを見るから……。ちょっと寂しくて。師匠も、悪友ならいるけど友人はいないって言ってて」 「そういう文脈の悪友というのは、特別に仲がいいってことだよ。自慢されたな」 「ええ!? そうなんですか?」  アウレリオは驚きの声を上げる。それからしょぼくれたように俯いた。 「なんだ、師匠にも仲がいい人、いるんだ……」  そう言って静かになったアウレリオを気遣うようにイングヴァルは話し出した。 「友人、ね。若い頃はいたものだが、傭兵団を任されるようになってからはいなかったな。組織の長という立場で誰かと親密になるのはよくないと、そう思っていたから」 「……それ、寂しくなかったんですか?」 「賑やかではあったからね。孤独ではなかったよ。良くも悪くも、毎日がお祭り騒ぎだった」 「家族も友達もいないけど、寂しくない人もいるんだ」  イングヴァルの言葉を噛みしめるように、アウレリオは言った。 「どうかな。強がりかもしれない。ここ数年一人で旅をしていたが、あの喧騒が恋しいと思うことはある」  言ってイングヴァルは力なく笑った。 「つまり、寂しいってことですか?」 「なんだい、やけに食い付くじゃないか」  アウレリオの問いの真意を確かめるようにイングヴァルは言った。 「……その、友達になりませんか」  アウレリオの言葉を聞いてイングヴァルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。それも一瞬だけで、すぐに消されてしまったが。 「俺たち、会わなかったことにしようっていうのは、それが一番いいってわかってるんですけど。その、あなたは悪い人には見えないし。俺のこと、褒めてくれたし……。子供扱いしなかったから」 「君と僕では歳が離れすぎているよ」 「歳が離れていたら友達になれないんですか?」 「なれないわけではないが……」 「だったら!」  食い下がるアウレリオに、イングヴァルは答えた。 「……少し、考えさせてくれ」 「本当ですか!」  有体な保留の言葉を真剣に受け止められて、イングヴァルは少し良心が咎めた。 「……今日はもう寝よう。森を抜けるにはあと二日はかかる。体力を温存しないと」  アウレリオは頷き、丁度沸いた水を冷まして喉を潤してから二人は寝支度をして休んだ。

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