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第1話
「こんにちは! シーリュウさん、あなたを助けに来た者です!」
薄暗い地下牢に突然現れた紫紺の法衣姿の男は、鉄格子の中にいるシーリュウに満面の笑みで言った。
「お前、助ける、言った」
シーリュウは馬車の中で、恨みがましい目で向かいに座る若い男を睨んだ。
その言葉遣いは東方訛りで片言だったが、単純な言葉だけに強さが宿っている。
曇り空の下、目には見えないが段々と陽が落ちて夜に近付いている森の中を馬車は走っていた。
その中でシーリュウと法衣の男は対峙している。
シーリュウは長い間牢に繋がれてぼろぼろの外見をしていた。
元はちゃんとしていたであろう見慣れない東方の黒と赤の衣も土埃で汚れており、ところどころ切れている。しかし、それでも色褪せていない所を見ると上等な染料を使った高級品とわかる。
烏の羽のように黒く長い髪は後ろに撫でつけていた。
身なりがちゃんと整えられていたら貴族と思わせるような気品がシーリュウには漂っていた。
顔の右半分を覆う仮面から、真っ赤な柘榴のような目が男を見据えている。
闇夜に潜む魔物のような目だ。敵意が剥き出しで獰猛な精神を隠しきれていない。
「これ、外せ」
言ってシーリュウは両手に嵌められている鉄枷を示すように手を振った。
その指の全てには赤い珊瑚でできたような指輪が嵌まっている。
「まあまあ、落ち着いて! それに、どうせ外したら逃げる気でしょう、あなた」
シーリュウの向かいに座る教会の法衣姿の男は、獣のようなシーリュウの視線を受けてもどこ吹く風と朗らかに笑っている。
春に咲く花のようなピンクの短い髪がつんつんと跳ねていて、凛とした顔立ちの男だ。二股に別れた眉毛が特徴的で、睫毛も長い。
そして、情熱的に燃えるような橙色の瞳をしていた。
聖職者という職業でなければ女に困らない美男と言えよう。黙っていれば女が見惚れもしようが、どうにも笑って口を開くと少年のような人懐っこさのある、不思議な男だった。
首には紫の帯をかけていた。帯の裾には金色の星の刺繍がされている。
一口に司祭といっても階級がある。
正式な司祭ではないものの何らかの特技を持つ者は准司祭とされ、首にかける帯には星の刺繍がつけられる。普通の司祭は帯に一本線が、十分な知識と経験を持つ上級司祭は三本の金色の線が刺繍されることになっていた。
男はそれで言うと准司祭だ。下っ端といえば下っ端だが、特技によっては上級司祭よりも重宝されることがある。
准司祭は正式な司祭ではないといえど聖職者であることには変わりなく、首に帯をかけていれば民は司祭様と呼び、敬われることが多い。
教会の定めた階級など民はさして気にしていない。自分たちの悩みを聞き、罪を赦し、共に祈ってくれれば誰もが司祭様であった。
男は右手だけに黒い手袋をしていた。
「まずは自己紹介といきましょう! 私はあなたのことをよく知っていますが、あなたは私のことを知らないですからね!」
敵意を隠さないシーリュウのことなど拗ねた子供のようだ、とまったく気にしていないように男は大きい声でそう言うと、自分の胸に手を当てて名乗った。
「私はナエマ・ガランと申します! 教会内の祓魔院 に所属している准司祭で、あなたをこうして迎えに来たわけです!」
「……ふつ、ま、いん? 何だ、それは」
シーリュウは耳慣れない言葉を確認するようにナエマに尋ねた。
「シーリュウさんが知らないのも無理はないですね、我々は裏方のようなもので……。魔を祓う、即ち悪魔祓いを行う部署です」
「悪魔……」
ナエマの言葉に思うところがあったのか、シーリュウは急に大人しくなって目を細めた。
「おや、心当たりがおありですか!」
「……魔物、沢山獣や人食べる、悪魔になる。そう聞いた」
「そうです、その通りです! 獣や人を食らった魔物は悪魔へと生まれ変わる。食べたものの知恵をつけて、人を害するために策を弄するようになる。喋ったり、化けたり、人に憑いたり、操ったりと。我々はその悪魔を祓う……、というか、物理的に倒しているのですが。これがなかなか難儀なものでして……。おっと、話が逸れましたね」
ナエマはそこで言葉を区切ると、真正面からシーリュウを見つめた。
「シーリュウさん、あなたは東方の大国、ジュファから来た商人だそうですね。特に、魔物の角や骨、皮、肝、蹄……。魔物の一部をよく扱っているようですが」
「高く売れる」
シーリュウはそれだけ返した。
「悪魔を倒す以外にも、悪魔の発生を未然に防ぐことも祓魔院の使命です。しかし、魔物は人知れず発生するもの。その生態はよくわかっていません。シーリュウさん、あなたはどうやって売り物の魔物を確保しているのですか? 教会ですら魔物の察知には時間がかかるというのに」
シーリュウは沈黙して答えなかった。
「ほう、どうやら人には言えない方法で魔物の出現を察知しているらしいですね。言っていただければその手枷を外して、協力者として相応の扱いをいたしますが」
シーリュウは手枷を外すといわれても黙ったままだった。余程言いたくない事情があるらしい。
「まあ、私としては手枷はそのままのほうが楽ではありますがね。このまま祓魔院まで行きましょう。そうしたら、私の仲間があなたに話を聞きます」
「拷問する気か」
「私はそういうのは苦手ですが……、院長はどうでしょうか。優しい人ではありますが、厳しい人でもありますので。あなたが協力的でしたらすぐに話は終わるでしょう」
脅すようなナエマの言葉にシーリュウは不機嫌そうな顔をした。それでも言うつもりはないらしい。
「我々は、魔物の一部を売買しているという噂を聞きつけてあなたに辿り着きました。あなたが根城にしている宿も押さえて、そこにあるものは全て押収済みです」
それを聞いてシーリュウの眉がぴくりと動いた。
「フォンスウはどうした」
「フォンスウ?」
耳慣れない言葉にナエマはおうむ返しに尋ねた。
「青駁毛 の馬だ、宿にいただろう」
「ああ、あの馬ですね。馬はそのまま宿に預かってもらっています。世話をするのも手間がかかるので」
「……ならいい」
ナエマの言葉にシーリュウは静かに息を吐いた。大事な馬なのだろうかとナエマは思う。確かに、宿の下男は賢くいい馬だと言っていたような気がする。
「……それにしても、口が軽い」
シーリュウは呆れたように口にした。
「どれだけ金を積もうと、教会の権威に逆らえる者はいませんよ。神はこの世の全てを見ておられる。その上で嘘を述べるなら、然るべき罰が下るでしょう」
ナエマは微笑んで言う。
それを見てシーリュウは言った。
「だったらその神とやら、聞けばいい。魔物、どこにいると」
「おっと、これは一本取られましたね」
言ってナエマは大きな声で笑った。
「この世の困難は全て神が我々に課した試練です。簡単に成せることなどありませんよ」
「人殺す、簡単」
シーリュウが皮肉気にそう返したのを、ナエマは聞かないふりをした。
「……あなたがあの城に囚われていたのは、何でも領主の森に勝手に立ち入り密猟していたところを捕まったからだとか。おかげで探すのに苦労しました。そこから出してあげただけでも相当な恩だと思いますが?」
「あんな牢、いつでも破れる。商売敵、追われていた。身を隠す、丁度よかった」
シーリュウは吐き捨てるように言う。
「……ほう。どうやら相当な腕をお持ちのようで。あなたは魔法使いには見えませんが」
言ってナエマはシーリュウを注意深く見た。
魔法使いであれば、もっと体から魔力が溢れ出しているものだ。しかしシーリュウは普通の人間にしか見えない。体格だって筋肉はついているものの細身である。
持ち物を全て奪われているというのに、それであの鉄格子をどうやって破る算段だったのだろうか。
「そう言うお前、悪魔、倒せるのか」
「ははは、恥ずかしながら、私は戦闘は滅法なのです! このように使い走り専門でして。本来ならば、とても祓魔院に所属できるような身ではないのですが……」
言って恥ずかしそうにナエマは頭を掻いた。
「戦えない男、価値ない。男は戦う、それが役目」
「はっはっは、耳が痛いですね……」
そう言ってナエマは苦笑したが、突然真摯な顔つきになって口を開いた。
「……それでも私は、悪魔を討伐しなければならない。それが私の生きる意味です」
そのとき、御者の叫び声と馬車を曳く馬の嘶きが聞こえた。それと同時に馬車が大きく揺れる。
「なっ……!」
がたがたと揺れた馬車は横倒しになり、シーリュウはナエマの下敷きになってしまう。
馬が一際大きな嘶きを上げ、それがぶつりと途絶えた。
「ひ、ひぃいいいい……!」
悲鳴を上げながら御者が逃げ、その足音が遠ざかっていく。
それと共に身が悪寒に包まれる。その悪寒には覚えがあった。
魔物だ。それも、かなり人や獣を食らった強い魔物の気配。
「退け!」
下敷きになったシーリュウが叫ぶ。
ナエマは慌ててシーリュウの上から退き、どうやって馬車から出ようかと周囲を見る。
扉が下になるように横倒しになってしまい、狭い窓からは出られそうにない。
どこかしらの壁をぶち破るしか出られない状態に陥った。
ナエマは今は壁のようになっている馬車の天井をがんがんと殴りつけたが、その程度で壊れる気配はなかった。
「……役立たず」
「役立たずって、あなたはこの状況を何とかできるのですか!」
毒づくシーリュウにナエマは食ってかかった。
手枷を嵌められているのに、何か奥の手でもあるというのか。
「お前、そっち探せ。ワタシ、こっち見る」
「……わ、わかりました」
このまま馬車から出られなければ魔物に襲われて死ぬだけだ。
手分けをして出る術を見つけようというのはもっともな提案であった。
シーリュウは屈んで馬車の前方を見た。
御者と話すときに使う窓がある。引き戸になっていて、戸板を外せば何とか出られそうだ。
「おい」
シーリュウはナエマに声をかけた。
「これ、外せるか。手がこれでは無理」
振り返ったナエマは窓を見て、おっと驚くように眉を上げた。
そして、手枷が嵌められているから無理だと言うシーリュウに苦い顔をする。
協力してこの危機から脱出したいのは山々だが、シーリュウの手枷を外して逃げられでもしたら困るのだ。
「わかりました。私がやってみましょう」
言ってナエマは屈みこみ、戸板に手をかけた。
シーリュウが真っ当に協力してくれる立場であるなら、すぐにでも枷を外せるものを。
自分だって罪人を引き回しているようで落ち着かないから、早く手枷を外してやりたい。しかし城の兵が、こいつは十人以上でやっと捕まえたから手枷はそのままにしたほうがいい、などと脅すからそのままにしているのだ。そして実際、シーリュウは会った瞬間からナエマを敵視している。ただでさえ早く祓魔院に戻りたいというのに、今度は魔物ときた。
シーリュウは教会でも知らない魔物を察知する術を持っている。それを何としてでも知る必要が――。
そこでナエマはあることに気が付いた。
「シーリュウさん、あなたまさか、この魔物に気付いて……」
ナエマが振り向いてシーリュウを見上げる。その瞬間、シーリュウはナエマの持ち物のトランクをナエマの頭に叩きつけた。
「ぐ、ぅ……」
くぐもった声を漏らし気を失って倒れたナエマをシーリュウは見下ろす。
「寝ていろ」
ナエマに届かない言葉をかけると、シーリュウは拳を握って胸の前で合わせる。そして目を閉じ口を開く。
「請賜予我辟邪的力量 ――!」
そう告げると指に嵌められていた指輪が赤い光を放ち、シーリュウの体を包んだ。
光に包まれたシーリュウの体は瞬く間に形を変え、光が散るとそこには全身を黒銀と真紅の鋼で彩られた、東方の鎧に包んだ異形の姿があった。
鎧――シーリュウは目の前の壁を殴りつけると、分厚い木の板がいとも容易く砕けて粉々になった。
シーリュウは馬車から出ると周囲を見渡した。
黒い霧のような濃い瘴気が辺りを埋め尽くしている。
近くにいるのはただの魔物ではない。強大な力を蓄えている魔物だ。
シーリュウは倒れているナエマを担ぎあげ、馬車の上に寝かせた。
瘴気は重く下に溜まる性質があり、少しでも高いところに逃げるのが効果的な対処法だった。
大きな馬車であることが幸いして、人の頭ほどの高さは稼げている。これなら瘴気を少し吸い込むくらいで済むだろう。その程度なら少しの間体調が悪くなるだけだ。死にはしない。
辺りを見渡しても視界は悪い。しかしシーリュウには魔物の気配が手に取るようにわかった。気配の源を見やる。
すると馬車を曳いていた馬が一頭、頭だけ食われて首なしの胴が転がっていた。
馬車は二頭立てだったはずだ。
さらにその先を見ると、馬の蹄の音が聞こえた。わずかに薄れた瘴気の中、馬が魔物に睨まれていた。
巨大な黒い雄牛の体に獅子の尾、猪の顎、枝を広げた木のような角。
角の先端には目玉が付いており、それらがぎょろぎょろと動いて方々を見渡している。
馬はあまりの恐怖に怯え、逃げることもできない。
「給我鞠個躬 」
シーリュウは唱えると、指輪の一つが光って手に弓が握られた。
オパールのような虹色の輝きを持つ弓だ。瘴気の中でもその輝きは失われていない。
それに角の目玉が反応し、いくつもある目玉が一斉にシーリュウのほうを向いた。シーリュウに向けて角を伸ばし襲いかかる。
同時に魔物のもう片方の角が伸び、馬を捉えて宙吊りにする。
魔物は馬を食らうべく猪の顎を持った口を大きく開く。
シーリュウは異形の角が襲いかかってきてもまったく動じず、静かに弓を構える。弓の弦を引くと真紅の光の矢が番えられた。
ぎりり、と弦が引き絞られる音がする。限界まで引ききり、あとはいつ放つかだけだ。
宙吊りになった馬が大きく嘶いた。
「給我大羿的力量 ――!」
それを合図にするようにシーリュウは口上を述べ矢を放った。
雷鳴のような轟音を響かせながら矢は襲い来る角に奔る。
それは矢、というよりレンズによって収束した光のようだった。
魔物の角は真紅に輝く矢に触れた瞬間にじゅっと音を立てて蒸発し、勢いを削ぐこともできなかった。
■■■■■――!
魔物が痛みに叫んでいる。その地獄の底から聞こえてくるような歪んだ音に、森の鳥が一斉に飛び立った。
矢は角を割きながら魔物の本体に迫る。
魔物は馬を放り出してもう片方の角で矢を止めようとするが、同じく消し飛ばされてしまう。
そして矢は魔物の頭部を抉り、森の彼方に消えていった。
残された魔物の体が、地にどさりと倒れる。体液が地面を腐らせながら広がっていく。
魔物を倒したことを確信したシーリュウは、弓を指輪に戻す。
シーリュウは一旦馬車の上に寝かせたナエマを見やって無事か確認すると、魔物に捕らわれた馬のほうに歩み寄っていった。
馬は横たわって狂ったように暴れていた。瘴気を吸いすぎたのだ。こうなってはもう治す術はない。
「沒有痛苦 」
シーリュウは腰に提げていた刀を抜くと、馬の首めがけて振り下ろした。
「ん、んぅ……」
頭に残る痛みに顔を歪めながら、ナエマは目を覚ました。
両足は地面についておらず、体が上下に揺れている。
「な、何です?」
「気付いたか」
シーリュウの声がして、そこでナエマはやっとシーリュウの肩に担がれているのだと理解した。
「ちょっと、下ろしていただけませんか!」
「……うるさい」
言いながらもシーリュウはナエマと、ナエマの持ち物のトランクを地面に下ろした。
地面に立ったナエマは状況を理解しようと目を閉じて、何があったか記憶を辿る。
そして思い出した。シーリュウに殴られて気絶したことを。この頭の痛みはトランクの角で殴られたものだということを。
「あっ、あなた、私を殴りつけましたね!」
「そうするしかなかった」
悪びれずにシーリュウは言う。
「ま、魔物は!?」
「倒した」
「倒したって、あなた一人で? それに、手枷は!?」
「……どこか、いった」
言ってシーリュウはそっぽを向いた。
「そんな嘘に騙されるものですか!」
怒るナエマにシーリュウは動じない。
「お前、怒る前に感謝する。ワタシに」
「何故!」
「ワタシいなかったら、お前、死んでいた。魔物の腹の中」
「っ……」
それはそうだ、とナエマは気を落ち着かせた。
「……確かに。私はあなたに感謝しなければならないようです」
ナエマはシーリュウに頭を垂れた。
「ありがとうございます、シーリュウさん。私がこうして生きているのはあなたのおかげです。必ずお礼をさせていただきます」
シーリュウはここまで真摯に感謝されるとは思わず、困ったような顔をしていた。それは下を向いていたナエマには見えなかったが。
「しかし、それとこれとは話が別です!」
がばっと顔を上げたナエマは、まだ痛む頭部を指してシーリュウに迫った。
「なぜ私を殴る必要があったのですか!」
「戦えない男、邪魔」
「ぐ、ぅ……」
たった二言で綺麗に斬られたナエマは何も言い返すことはできなかった。
確かに、自分がいたことで何かの助けになったかと言うと、多分ならなかっただろう。
どんな手段か知らないがシーリュウは牢を抜け出す算段があったし、その気になれば鉄の手枷だって外せたのだ。それくらいできるなら魔物を倒すのも苦ではなかったろう。
実際、シーリュウは魔物と戦ったあとだというのに傷一つ負っていないどころか、気を失ったナエマを担いで歩いていたほどである。自分より一回り小さいシーリュウにそんな扱い方をされて、ナエマは男として情けない気持ちになった。
「……ん?」
そこまで考えてナエマは眉を寄せた。
「シーリュウさん、どうして私を連れてきたのですか?」
「最初、逃げる思った。でも教会の人間、敵に回す、厄介。お前の仲間に会う、それくらいする」
「そ、そうですか……」
善心からくる人助けではなく打算から来る人助けと知り、ナエマは顔を引きつらせて笑った。
「早く歩け。夜になる」
言ってシーリュウは森の中の道を歩き出した。
ナエマは慌てて辺りを見渡す。夜になると言ったが、ほぼ夜だ。
よくこんなに暗い森の中を明かりもなく一人で歩けるものだ、とナエマは驚いた。
「ま、待ってください! ランタンがあります!」
ナエマは慌ててシーリュウにそう呼びかけ、トランクを開ける。
悪魔祓いの道具一式が詰まったトランクだ。
ナエマは悪魔と直接戦う力はないものの、道具だけはいつも持ち歩いている。
その中から蝋燭を取り出し、火打石を打って火口に火をつけると蝋燭の芯にその火を移した。そして蝋燭をランタンに入れる。
ナエマはランタンを持って、足を止めたシーリュウの横まで歩いていった。
「たまには役に立つ」
ナエマは言い返したかったが、魔物との戦いで役に立たなかったのは確かなので言葉を飲み込んだ。
「御者の話では、日が暮れる頃には旅籠に着くという話でしたが……。早く着かねば野宿になります。それはちょっと……」
「怖いか?」
ナエマは黙り込んだ。シーリュウの言葉を肯定しているようなものだ。
蝋燭の頼りない明かりを頼りに夜の森を歩くのかと思うと、ナエマは少し気後れしそうになる。
しかし、シーリュウが一人で先に歩いていくのを見て、急いでその後を追った。
「シーリュウさん、どうやってあの魔物を倒したのですか。強い魔物のように思えましたが……」
ナエマはシーリュウに尋ねた。
「言う義理、あるか」
「……そう、ですね」
シーリュウの答えを聞いて、珍しく覇気のない声をしてナエマは言った。
それを不審に思ったシーリュウはナエマの様子を窺う。
「……私にも、戦える力があれば……。魔物や悪魔と渡り合うだけの力があれば、あのとき……」
「力、あるだけでは駄目。心、伴っていないと、戦場立てない」
シーリュウの言葉に、ナエマはシーリュウの顔を見た。
真っ直ぐと前を向いていて、その瞳には迷いなどないように見える。
確かに、いくら強大な力があっても魔物や悪魔と命のやり取りをする覚悟が決まっていないと、それは力を持っていないのと同じだろう。
「その通りですね。……私は意気地なしだ。戦いが怖くて聖騎士団からも逃げ出した」
「臆病者」
シーリュウの言葉にナエマは苦笑いした。婉曲な皮肉だったら怒ることもあろうが、ここまで直球に言われると気持ちよさすらある。
「シーリュウさんは、戦うための教育をどこかで受けたのですか」
「……ワタシの家、武門だった」
シーリュウは顔を顰めて零した。
ナエマはシーリュウの様子に、思い出したくないことなのだと察した。武門というからには貴族のようなものだろう。だが、彼が国を捨てて商人をしているということは家にいられないような事情があったに違いない。事実、東方から魔物の蔓延る魔境を越えて西方に流れてくる者は、東方で居場所を失くしたならず者が多かった。
そう思うと詮索するのも気が引ける。ナエマは何か話題を探して辺りを見回すと、木々の間に炎の光が見えた。
「旅籠、でしょうか……」
「近付けばわかる」
言ってシーリュウは歩く速度を早めた。ナエマもそれに着いていく。
歩いているとやがて開けた場所に出て、腰ほどの石の塀が築かれた広場がある。
その中に木造りの大きな旅籠があった。炎は戸のそばに据えられた松明のものだ。外の馬小屋には馬が何頭も繋がれている。
「これで今夜は休めそうですね!」
シーリュウは答えずに険しい顔をしていた。
「どうしました?」
「……いいや、腹が減った」
言ってシーリュウはまた歩き出した。
二人が旅籠の中に入ろうと近付くと様子がおかしいことに気付く。
人の気配はするのに、妙に静かだ。
窓から様子を窺おうとしても、当然ながら夜では木の窓は閉じられている。
ナエマが戸を開けようと手をかけても戸は開かなかった。
そして中から小さな物音と、女のすすり泣くような声が聞こえる。
ナエマは戸を叩いて大きな声で言った。
「夜分遅くに失礼いたします! 中に入れていただけませんか!」
すると中で人が動く気配がし、戸にある覗き窓が開いた。
覗き窓からは白髪の老人がこちらを睨んでいる。
「でけえ声出すんじゃねえ。魔物に気付かれるだろうが」
「し、失礼しました……」
ナエマが詫びると、老人はナエマをじろじろと見つめた。
「し、司祭様ですか? こちらこそ失礼を。魔物に襲われませんでしたか」
ナエマの出で立ちを見て教会の司祭とわかると、老人は言葉遣いを変えた。
「ええ、襲われましたが……った!」
襲われたがシーリュウが倒したので無事だった、と言おうとしたところを、シーリュウが思い切りナエマの足を踏みつけたのだ。
「何をするんです!」
シーリュウは無言で、言うなと口の前で人差し指を立てている。
「魔物に襲われましたが、私の連れが倒しました」
シーリュウを無視してナエマは言った。シーリュウが隣で舌打ちしている。
「ほ、本当ですか?」
老人は驚いたようにナエマに問う。狭い覗き窓からはシーリュウが見えないのだ。
「中に入れていただけると、助かるのですが……」
「そ、そうだ、入ってください」
言うと閂が外される音がして、扉が開かれた。
老人はナエマを歓迎するように笑ったが、その後ろに控えるシーリュウを見て戸惑う様子を見せた。
「その、東方の者では……」
「ええ。ですが、私は彼に助けられました」
「司祭様が、そう言うなら……」
言って老人は中に入れるように道を開けた。
「司祭様だ! 魔物も倒したらしい!」
老人は旅籠の中にいる全員に聞こえるように大声で言った。
すると、中にいた人々がわあっと歓声を上げる。
旅籠の中は蝋燭の明かりで満たされ、一階の食事処に所狭しと人が集まっていた。四十人ほどはいるだろうか。
椅子に座りきれない人間は床に座っている。今まで魔物の気配に怯えていたのだろう。
彼らは司祭様だ、司祭様だ、とナエマを見て祈りの仕草を見せる。
そして、手近なテーブル席に座っていた一行がナエマ達に席を譲った。
「いえ、私は床でも構いませんが……」
「司祭様にそんなことをさせるわけには……!」
一行の男が食い下がったので、ナエマはためらいつつも空いた席に座った。
ナエマは空いた向かいの席を指し、シーリュウにそこに座れと示す。シーリュウは大人しく席についた。
すると、皿に盛られた少しの干し肉とパンが老人によって運ばれてきた。
「魔物を倒していただいたお礼と言っては何ですが……。申し訳ありません、まともな食事も出せず。食料を運んでくる商人が魔物に襲われて、何日もこの辺りを魔物がうろついているもので、こうして閉じこもるしかできませんで……」
「いえ、貴重な食料を分けていただき、感謝いたします」
ナエマが老人に言ったとき、部屋の奥から子供が走り寄ってきた。
「嘘つき!」
「やめなさい!」
ナエマにそう叫んだ子供を母親が取り押さえて叱りつける。
「嘘つき!」
なおも止まらない子供は、首から提げていたものを外してナエマに投げつけた。突然のことにナエマは何の対応もできず、顔に当たった。
膝の上に落ちたそれを手に取ってみると、銀色をしたメダルだった。教会のシンボルである、翼に抱かれた七枚の花弁を持った薔薇が描かれている。
「神様に祈れば助けてくれるって言った! でも父さんは魔物に食われて死んだ! 嘘つきだ!」
ナエマはメダルが当たった頬に手をやり、立ち上がって少年の元まで近寄ると視線を合わせるように膝をついた。
「君、名前は?」
ナエマは微笑んで少年に問いかけた。
少年は怒られるのかと思って体をびくつかせたが、そうではないと知ると恐る恐るナエマのことを見ている。
「……クレル」
少年は名乗った。
「クレル。いい名前ですね。勇敢に戦った聖騎士の名前です。お父様につけてもらったのですか?」
こくり、とクレルは頷いた。
「あなたが怒るということは、それだけ神を信じていた証です。よい子ですね」
「でも、父さんは……」
「あなたのお父様は強く願ったのです。自分の命よりも、あなたとお母様が助かることを願った。その願いを神が聞き、叶えてくださったのです。あなたも魔物に会ったならわかるはずです。あのような恐ろしい魔物に出会いながら生き延びていることが、どれだけ幸運なことか。お父様はその幸運を呼び寄せたのです」
「……でも、もっと父さんと、一緒に、いたかった……」
言ってクレルは泣きじゃくってしまった。
それを宥めるようにナエマはクレルの頭を撫でる。
「私も似たような経験があります。私のいた街は、悪魔によって滅ぼされました。街の人も、父も、母も……。この世で一番固く結ばれていると思っていた双子の兄さえ、悪魔は奪っていきました。一人残された私は司祭に問いました。なぜ自分だけが生き残ったのかと。すると司祭は、私に与えられた使命があるからだ、と答えました。以来、私は悪魔を追っています。悪魔を討伐することが私の使命なのです」
ナエマはそう言って立ち上がると、部屋の皆に聞こえるように大きな声で言う。
「あなた方は神に与えられた使命があって、今この場にいるのです。魔物に襲われて亡くなった方もいらっしゃるでしょう。自分が生き残ったことを悔やむ方もいるでしょう。しかし、世界とは目に見えるものだけではありません。むしろ、目に見えることのほうが少ないのです。神も死者も、目には見えずとも常にそばにいらっしゃるのです。死の別れは永久ではありません。あなた方が亡くなった方を胸に留めていれば、あなた方の中に生きているのです。そして来るべきとき、あらゆる生命が復活するとき、再び会うことができるでしょう。今を生きる我々にできることは、正しき行いをし、使命を果たすことです。今はまだ何を為すべきかわからないかもしれません。しかし、いつか訪れるでしょう。この瞬間のために生きていたのだとわかるときが。私も、今ここで皆様の力になるために、この場を訪れる運命だったのだと信じています。皆様に神のご加護があらんことを」
ナエマがそう結ぶと、その場にいた皆は手を合わせて祈りの言葉を口にした。
そしてナエマは再びクレルの前に膝をついた。
「クレル、あなたにも必ず使命がある。その使命を成し遂げるために、神も、そしてお父様も力をお貸しになるでしょう。泣かないで、上を向きなさい。お母様の言うことをよく聞いて、大きくなったら、お母様を守るのです。わかりましたね?」
クレルはナエマの言うことに頷いた。
言ってナエマはクレルに微笑み、先ほど投げられたメダルを手袋を嵌めた右手に乗せ、クレルに差し出した。
「手を乗せてください」
ナエマの言葉に疑問符を浮かべながら、クレルはメダルの上に手を乗せた。
するとナエマは満足そうに笑い、目を閉じて祈りの言葉を口にした。
「神よ。我らをいかなる困難よりお守りください。晴れない空はなく、止まない雨もなく、明けない夜もない。苦しみを耐え忍ぶ力を、そして一歩を踏み出す力を、我らに与えてください」
祈りを終えたナエマが目を開けると、クレルが信じられないという顔でナエマのことを見ていた。
ナエマとクレルの手の隙間から光が漏れている。
クレルが恐る恐る手を退けると、ただのメダルが黄金の光を放っていた。
隣にいるクレルの母も信じられないという目で光るメダルを見ている。
「どうです、すごいでしょう?」
言ってナエマは悪戯っぽく笑った。
「どうやったの?」
「私が何かをしたのではありません。これも神の御業です」
ナエマは言いながら、光を放つメダルをクレルの首にかけてやった。
「大事になさい。あなたとお母様を守ってくれます」
「奇跡です……! ありがとうございます……!」
母はそう言って何回も頭を下げた。
そして、今度はその様子を見守っていた部屋の中の人間がどっとナエマに詰め寄った。
「司祭様、俺にも!」
「私にもお願いいたします!」
「僕のほうが先だ!」
「み、皆様焦らず! 順番に皆様の元を回りますから!」
言ってナエマは皆を静め、一人一人の言葉や嘆きを真摯に聞き、祈りの言葉を唱え、メダルに光を灯していった。
メダルを持っていない者もいたので持ち歩いていたものを与えようと、ナエマはトランクの置いてある席に戻った。しかし、そこにシーリュウの姿はなかった。腹が減っていると言っていたのに食事も手つかずだ。
「おや、私の連れは……?」
ナエマは近くにいた人間に尋ねた。
「さあ……? さっき、何も言わずに外に出ていきました」
「……そう、ですか」
何かおかしいと思ったものの、早くとせがまれてナエマはまた別の者の元に向かった。
やがてナエマは全員に祈りの言葉を唱え、そのメダルに光を灯した。
旅籠にいる全員は、その業を前に心が落ち着いたようだった。一部では歓談する余裕さえ出てきたようだ。
これだけ気が確かなら大丈夫だろう、とナエマは頷いた。
そして席に戻るも、まだシーリュウの姿はなかった。
大分時間が経っているのに、まだ戻っていないのか。
「失礼、連れを探して参ります。すぐに戻ります」
言ってナエマは外に出た。
旅籠の前の広場にはシーリュウの姿はない。
教会の人間を敵に回すと厄介だから会うくらいはする、と言っていたはずだ。ここから逃げるような愚を犯す人間ではあるまい。
「シーリュウさん? どこですか?」
声をかけながら探すと、少し離れた馬小屋にその姿があった。
馬に、歌うように優しく声をかけながらその背を撫でている。異国の言葉だ。
厳しいシーリュウもそのような優しい面を見せるのかとナエマは驚いた。
「シーリュウさん、どうしました」
「ワタシ、この地の神、信じない。説教つまらない。茶番もごめんだ」
「……茶番、とは」
ナエマはシーリュウの言葉の真意を探るように答える。シーリュウは顔の半分を仮面で覆っており、言葉も片言でどういう感情を持っているのかわかりにくいところがある。
「臆病者が皆を勇気づける、茶番」
シーリュウの容赦のない言葉に、ナエマは力なく苦笑いする。
「茶番だとしても、そう見えたならよかったのですが」
言ってナエマはシーリュウに歩み寄る。
「……シーリュウさん、私は正しいことができたでしょうか。魔物と戦う力もない、戦場からも逃げ出した臆病者の私が、皆に勇気を与えるなど……。騙しているも同然だ」
懺悔するようにナエマは告げた。
「何故ワタシに言う」
「……私は弱く、あなたは強いからです」
ナエマは言った。その言葉にシーリュウはわずかに目を細めた。
「……皆、喜んでいた」
「何も知らないからです! 私は聖職者として求められたことを演じただけです!」
シーリュウの言葉がナエマの心の何かに触れたのか、ナエマは声を荒げた。しかしシーリュウは動じない。
「あの手品もか」
シーリュウは馬を見たまま振り返らずにナエマに問うた。
「て、手品ではありません! 神への信仰の賜物です!」
ナエマが答えるとシーリュウは振り返った。
「この地の神を信じれば、誰でもできるか?」
「そ、それ、は……」
言ってナエマは言葉を濁した。
「お前、言っていた。悪魔に襲われた街の生き残りだと。悪魔が人を見逃す、あり得るか? ……お前、何者だ」
「…………」
ナエマは少し悩んだ末に、シーリュウの元に歩み寄った。
「そうです。私は、人とは違うのです」
「どう違う?」
「私は決して魔に侵されることはありません。そういう星の下に生まれたのです」
言ってナエマは右手に嵌めていた手袋を脱ぎ、その手をシーリュウに見せた。
手の甲には薔薇の形をした痣が刻まれており、ほんのりと赤く光っている。
「これが証拠です。私が生まれたときからこの痣があった。最初は薄かったものの、歳を重ねるごとに濃くなっていった。教会の認めるところの聖痕、神の寵愛の証、それが私に宿っています。これがあるから……、これのせいで、私はあの惨劇から一人生き残った! 悪魔は私を殺さなかった……!」
言ってナエマは片手で顔を覆う。
「悪魔は私に地獄を見せ、全てを奪った……! 私はこんなもの望んでいなかった! 私一人生き残ってどうなるというのです、私はあのとき誰も救えなかった! こんな絶望を味わうくらいなら、父と母と、兄と、一緒に殺されたほうがましというものだ……!」
ナエマの零した本音にシーリュウは感心したように笑った。
「……とんだ役者だ」
「皆がそう求めるからです! 私が聖職者だから、聖痕があるから特別を求める……!」
「……だが、お前、それから逃げない。嫌なら逃げればいい」
ナエマは顔を上げる。
「臆病者だからですよ。聖痕を持つ者として教会の中で特別扱いされていれば、地位は安泰だ」
言ってナエマは力なく笑った。
「しかし、お前は祓魔院、いる。何故。悪魔倒す場所、言っていた」
「……復讐です」
ナエマは虚空を睨みつけた。
「私から全てを奪った悪魔に復讐してやりたい。その全てを打ち倒してやりたい。……しかし、私は……、覚悟ができない……」
「覚悟?」
シーリュウは何を言っているのかわからない、といったようにナエマに問う。
「あなたのように戦う覚悟です。命を懸ける覚悟が、どうしても私にはできない……! 私の街が悪魔に襲われたとき、皆が苦痛に悶えていた。生きながらにして悪魔に食われ、痛いと、死にたくないと叫んでいた! それを思い出すたびに体が震えてしまうのです。神の寵愛を受けたとて不死なわけではありません。私はあのような目に遭いたくない……! 怖いのです……!」
そう言ったナエマの声は震えていた。
その脳裏にはどんな光景が浮かんでいるのか、シーリュウにはわからなかった。しかし、悪魔に襲われた街のたった一人の生き残りというだけで想像を絶する光景を目にしたことはわかる。
それを目の当たりにしておきながら、命を賭して魔物や悪魔と対峙する覚悟を持てるほうがおかしいのかもしれない。誰だって自分の身が一番可愛いものだ。ナエマを責められる人間がいるとしたら、同じ目に遭っても命を賭して悪魔と戦う覚悟を持てる人間だけだろう。
「シーリュウさんは、なぜ戦えるのですか」
「……ワタシ、武門、生まれた。戦う、役目」
「怖くは、なかったのですか」
シーリュウは俯き、少し考えてから口を開いた。
「家の跡取り、なる。優れた兵に、将になる。宮中に上がり、帝に仕える。それが父の望み。それ叶えるのが息子のワタシの使命。そうするしか、ワタシにはなかった。怖いと言うこと、許されなかった」
言いながらシーリュウは顔の半分を覆う仮面に手を添えた。
「だったら何故、シーリュウさんはこんなところに……」
「父に役立たず、言われた。父の望み叶えるため、どんなことも耐えた。しかし駄目だった。ワタシより劣っていた弟が跡取り、なった。父はワタシ、要らなくなった。家を出て、国を捨てた」
「それは、どうして……」
「……お前にはわからない。神とやら、愛されたお前には」
シーリュウはそこで言葉を区切ると、再び口を開いた。
「ワタシ、戦う理由わからない。自分のため、戦っている」
「自分の、ため……?」
シーリュウは頷いた。
「父の望み叶える。そのために生きていた。でも、その目標なくなった。力、人を助けるため、国を良くするために使う、教えられた。……でもワタシのそば、誰もいない。国もない。自分のためだけに力使う、悪いことだ」
「しかし、シーリュウさんは私を助けてくださった……」
「ワタシ、魔物に殺されたくない。だから魔物殺した。お前が助かった、ついでだ」
「……それでも私は、あなたに感謝していますよ」
シーリュウの突き放したような言葉に、それでもナエマは微笑んで言った。
「旅籠の連中も、同じ。お前の本当の気持ち、知らない。でもそこに湧く気持ち、嘘ではない。茶番だが無意味ではない。お前、人を助けている」
シーリュウの言葉に、ナエマは驚いた。
「私が人を助けているなんて……。しかし、それだったらシーリュウさんが私を助けたのも、シーリュウさんの本意でなくとも人助けですよ」
「違う。ワタシがお前助けた、得だから。ワタシ、悪い人間」
「……そう思いながら生きていて、つらくはないのですか」
ナエマに問われてシーリュウは俯いた。
「……よくはない。でも、何のため力持っている、何のため力振るう、何のため生きている、それがわからないまま死ぬ、もっと嫌だ。だから、生きる意味、探している」
シーリュウの言葉にナエマは悩ましげに眉を寄せた。
何のために力を持っているのか。何のために力を振るうのか。
シーリュウの問いはナエマにものしかかってくる。
ナエマは神の寵愛を受けた者として生まれた。
何のためにその力があるのか。それからは目を逸らしていた。この力さえなかったら家族と共に死ねたと恨みさえした。
何のために力を使うのか。悪魔に復讐するため。それは、自分のためだ。神の教えを信じる人間として、民を導く聖職者としての務めからくるものではない。
シーリュウは自分の在り方に悩んでいる。力を善行に使うことのできない自分が正しくないと自覚している。自覚がある分、ナエマよりずっと深く物事を考えている。
「……シーリュウさん、あなたは自分で思っているより善い人間です。全てから逃げてばかりの私と違って、ね」
自嘲するようにナエマは言った。
そのとき、シーリュウのそばにいた馬が耳を立て、辺りをきょろきょろと見回した。
それを宥めるようにシーリュウは馬の背を撫でる。
「……まだ強い魔物、いる。何匹も。馬は賢い。すぐわかる」
「何ですって?」
ナエマは目を見開いた。
「魔物、獣より人間好む。ここは人間、沢山いる。餌場のようなもの」
「な、何とかならないのですか……!」
「お前、ワタシが戦う思っているのか」
「えっ……」
「ワタシ、今手枷もない。この馬盗んで逃げる、できる。ワタシ戦う意味、ない」
「それ、は……」
シーリュウの言うとおりだ。彼だけならここから逃げて生き延びられる。
それを見ず知らずの人間のために命を懸けて戦え、というのは無理な頼み事だ。
「事が済みましたら、何かお礼を……。教会から謝礼を出すよう頼みます! どうか……」
「口約束、信用できない」
シーリュウは言った。
ナエマは少しの間考え、口を開く。
「あなたが無事に魔物を倒してくれたなら、教会の人間にはあなたが魔物と戦って死んだと言います」
それを聞いてシーリュウはわずかに目を見開いた。
「お前、自分が何を言っているか、わかってるか」
ナエマは目を閉じ、苦々しげに頷いた。
「教会、ワタシが魔物の場所を知る方法、知りたがっている。それをいらない言うのか?」
「承知しています! しかし……」
ナエマはその先を言い淀んだ。
「魔物の場所、知る術わかれば大勢の人、救える。それをお前は、ここにいる人間のために捨てるか」
ナエマが言っているのはそういうことだ。
ここにいる四十人ほどの命のために、これからもっと大きな犠牲が出る。
「しかし、私は目の前で人が死ぬのを見たくないのです! 私には戦う力もない、あなたに頼むしかありません……!」
「見えないところで人死ぬ、それはいいのか」
「人を救うことが使命の聖職者として許されない発言とわかっています! それでも私は、人が死ぬのを目にしたくない……!」
己の我儘と知りながらナエマはシーリュウに頼むことしかできなかった。
シーリュウは呆れるようにため息を吐いた。
「ワタシ逃げる、ここの人間死ぬ。寝覚め悪い」
「で、では……!」
シーリュウは返事をする代わりに頷いた。
「一匹ずつ戦う、何とかなる。何匹も同時に戦う、ここ守る、難しい」
「で、でしたら私にもできることがあります! 魔物が入ってこられないように結界を張りましょう。こういうことは得意です!」
「……お前、役に立つ」
言ってシーリュウは目を閉じ、柔らかく微笑んだ。初めて見せる心からの笑顔だった。
「それで、どうします」
ナエマはシーリュウにどうすればいいか尋ねた。
「今知らせる、まずい。皆戸惑う。夜明けたとき、言う」
「そう、ですね。それがよいでしょう」
「だが、結界とやら、すぐ準備する。夜は魔物、活発になる。できるか」
「やってみせます!」
そう頷いてみせたナエマの目は真っ直ぐな光を宿していた。
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